第4回総会に寄せて(3人のトークショウー)

がん患者の喜び
 私が始めた患者会(「1・2の3で温泉に入る会」)も、設立から2年7ヵ月経った。
初めは、温泉に入ることで精いっぱいだったが、少しずつ体制が整ってきた。すると、
 「私たちも.定期的に勉強会がしたいわねえ」 という話になった。
 「じゃア、春は勉強会。秋は温泉大会。その2本立てで行きましょう。その間を、年2回の会報でつなぐ」
 とりあえず、それでやってみることになった。おそらく、この体制が軌道に乗ったら、次はがん患者として、政治や行政にも発言したいという話になるだろう。焦らず、じっくり、無理のない運動を進めたい。患者会に“無理は禁物”である。

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 というわけで、勉強会をやることになったのはいいが、どんな形でやるのか。
 真っ先に考えつくのは、大学の教授か、有名な医師を呼んできて、講演をして…いただくことだ。私たちも、まずそれを考えた。しかし、次の段階で、(いや、待てよ〉と思った。そういう方々には、たいてい著書があるから、講演よりはじっくり本を読むほうがいい。初歩的な知識なら、インターネットで十分だ。最新の医学情報なら、学会を覗くという手もある。インターネットを駆使して、外国情報を入手することもできる。そのうえ、最近はこの雑誌をはじめとして、医療メディアが豊富になってきた。書店に行って、がんの雑誌を探せぱいい。
 つまり、医療情報は比較的容易に手に入る。が、患者には患者の数だけ個人差がある。Aさんにはぴったりの話でも、Bさんにはさっぱり当てはまらない。それを、どうするのか。
 もう1つ。どの医師にお願いするのか。それも、結構難しい。

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 「つまりネ。患者に必要なのは、医療情報のほかに、病気とのつき合い方、あるいは病気を抱えた生き方。それも勉強しなくちゃならないのよ。こっちは医師や病院が教えてくれないことだけど……」
 そこまで行き着いて、私たちは“がん患者としてどう生きるか”の勉強会をやることになった。
私たちの勉強会は、広く門戸を開いて、会員以外の方々にも公開することにしている。
 いささか不安だったけれど、思い切って450席のホールを予約した。全国に散らぱっている会員の出席が150席、残りの300席を一般の方々に開放するという計算である。
内容は、がんと共に生きている3人.の女性のトークショーと決めた。
 一人は、 “がんと一緒にゆっくりと生きている” 絵門ゆう子さん。
 もう一人は、私たちの会の会員であり “がんだから上手に生きている” 田原節子さん。
 そして企画者 の私。 私のキャッチフレーズは、 “がんであってもゆめを見る” 俵萠子である。
 3人のトークのテーマを、 <がんにもらった素敵な人生> と決定した。
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 2004年6月27日。江戸東京博物館のホールは、満席だった。
お断りしても、お断りしても「入れてください」という人が跡を絶たなかった。
 絵門さんは、千薬の自宅から、首にギプスを当てたままいらした。
(首のギプスは、がんの転移で骨にヒビが入ったため.)。1時間半の舞台では、ギプスを外して出演された。
 田原節子さんは、入院中の聖路加国際病院から寝台車でいらした。やはり、骨への転移で歩けないからだ。
 私は、今のところ体調がいい。右乳房の全摘手術以来、8年3ヶ月経った。
 いちぱん心配したのは、田原さんが当日朝まで、歩行はもとより、座位がとれなかったことだ。しかし、どういうことだろう。ストレッチャーで舞台に到着した田原さんは、しゃきっとソファに腰かけた。両側をクッションで支えはしたが、1時間半、この姿勢を続け、見事に役割を果たした。元・日本テレビアナウンサーのブロ意識と、田原節子という人の人間性を見た思いである。
 私たち3人の結論は、がん患者がいちぱん嬉しいことは、 期待されること、 人の役に立つこと、 頼られること、 役があること、 好きなこと(私たちの場合は仕事)ができることであって、健康な人と少しも変わりませんという平凡なことであった。
 会場を出ていくすべての人が私に言った。
 「俵さん、ありがとう。何だか “元気” が出てきました」
 田原さんが当日朝まで、歩行はもとより、座位
がとれなかったことだ。しかし、どういうことだろう。
ストレッチャーで舞台に到着した田原さんは、しゃ
きっとソファに腰かけた。両側をクッションで支え
はしたが、1時間半、この姿勢を統け、見事に役
割を果たした