がんを治す完全ガイド  第24回
わからないことだらけ

 
たまたまテレビをつけたら、烏取県のホスピスの話だった。「ともに死に向かう。ホスピスケアの現場から」という番組。
 ホスピスについて、私は不案内だが、登場している医師が高名な方であることくらいは知っていた。わずか19床の小ぢんまりしたホスピス。確か、ホスピスの名前は「野の花診療所」だったような気がする。私は1年前に見学した韓国のセマルホスピスを思い出しながらテレビを見ていた。セマルホスピスのことは、このコラムでご紹介したから、ご記憶の方もいらっしゃると思う。
 あのとき、私が驚いたことのーつは、ホスピス側が、すぺてを公開し「どこを見てもいい。誰と話してもいい。ご本人が了解すれば、……」と言ってくれたことだった。
1つか2つの病室を除いては、ほとんど病室のドアは開いており、覗くと患者さんはにっこりして私たちに手招きをしてくれた。
 「野の花」もそうらしかった。もちろん、こちらはテレビだから、私が訪ねたわけではない。NHK教育テレビのカメラが訪ねているのだ。「入らないでほしい」、「撮られたくない」という人が何人いたのかはわからない。しかし、19人中3、4人の人は、了解のうえで院長の徳永進医師と会話しているところが映っていた。
 韓国のセマルホスピスの場合はテレピではない。私たちは外国人であり、報道目的ではない。行きずりの人だ。だから会話をしたとしても、誰にも知られるわけではない。でも.「野の花」の場合は日本のテレピだ。現に私のようなアカの他人が “その人” を見ている。きっと多くの知人が見ているに違いない。

                         ☆☆☆☆☆☆

 (もし、私が患者の立場だったら、どうするだろう) と考えてしまった。
 たぷん、外国の訪問者になら、気分が良けれぱ会って話をするかもしれない。ホスピスの日々には、ひょっとすると退屈なときがあるかもしれないし、気晴らしになるかもしれないから……。
 でも、日本のテレピだったら、どうだろう。
 (やっぼり、テレビに映るのは、断るのではないか) と思った。
 理由は? そこが肝心だと思った。
 1つは、病み衰えた自分を、他人に見られたくないからてある。
 (でも、それって、何だろう) とも思う。
 “美しく見られたい” とか “元気に見られたい” というのは、一種の見栄ではないのか。それとも“他人へのサーピス心”なのだろうか。見栄は、いけないことなのだろうか。いいことなのだろうか、それとも他人から哀れまれるのがいやだからか。
 でも、なぜ、哀れまれるのか? 病み衰えたことは生物として自然ではないか。間もなくなく死ぬということも自然のーつであるとするなら、それを、哀れむ人のほうが間違っている。

 昔、原節子さんという、美しい女優さんがいた。 「完壁な美人」だと評判の人だった。その原節子さんは、あるときから、消息を絶った、どこに住んでいるのか、生きているのか、死んでいるのかさえわからなくなった。伝え聞いたところによると、(多くのファンの人の、イメージを壊したくないので、身を隠し、ひっそりと老い、ひりそりと病み、ひっそりと死んでゆきたい)
と語っていたという。
 そういうのを“生き方のーつの美学”と言うのだそうだ。だったら、私がホスピスで、病み衰えた姿を他人に見せたくないと思うことも、美学として許されるのだろうか……。実を言うと、私にはよくわからない。

                         ☆☆☆☆☆☆

 この番組には、もうーつ、わからないことがあった。
 徳永医師が、在宅ホスビスを望む患者さんに、往診する場面がある。
 徳永医師が、患者(男性の1人暮らし) と死について話しているとき、患者さんが一言う。
 「死ぬことは、別に怖くはない」
 自分に言い聞かせるように、彼が言うと、徳永医師は、
 「あるがままに、でいいのですね?」
 2人はうなずきあって別れる。
 ―― この場面だった。1つは、はたして、私には「死ぬことは、別に怖くない」と言える日が来るがろうか? ということ。もう1つは、「あるがままでいい」と言える日が来るだろうか、ということ。
 「あるがままに、死を受け人れよう」とすると、どうしても今の私は、元気がなくなっていく。どうせ、必ず死ぬ日が来ることはわかっているが、1分、1秒でも長く生きようと考えないと、元気が出てこない。
 死をあるがままに受け入れるのか、死を、白分の人生の最後の挑戦と捉えるのか。読者の皆さんのご意見も聞かせてくださいませんか。