8回目のこの半年……        俵萠子

 「この半年」とは、前回の会報があなたのお手元に届く1ヵ月前から今日までのことだ。
 私たちの会報は、原稿を印刷所に届けてから、約1ヵ月かかって出来上がる。印刷所から出来てきた会報が事務局に届くと、事務局の人は急いで会報のほかにお手紙や資料を封筒に詰める。もちろん、そういうものは事前に作っておく。封筒の表に、あなたの住所や名前を書いたり、シールで貼り付けたりする。そして、メール便で発送する。会員が350人なら350通。
それに会報交換や贈呈用のものもほぼ200冊ある。合計550通だ。それをやってくださるのが、私たちの仲間の事務局ボランティア・武田さんと石田さんだ。その他に助っ人で群馬支部の人が何人か来てくださる。今年の八月から、お一人、安い安い有償で専属の方(木村ひろみさん)をお願いした。 どうぞよろしく。
 私の役割は事務局が忙しくなる前だ。半年間、ずっと会報のことを考えている。会員に原稿を依頼する。自分も会報原稿のための資料集めをする。
そして、締め切り日が来たら遮二無二、書く。ただ、ひたすら書く。
 今回を例にとれば、今年の1月末までのことは、前回の七号会報に入れた。
2月から7月までの出来事が、この八号会報に入っている。
 その間の一番大きな出来事は、なんといっても、6月11日の総会とシンポジウム。それにわが温泉座の初公演だった。場所は東京都港区芝の「女性と仕事の未来館」。初めて使う会場だった。出席会員は、全国から140人。一般のお客様72人。計212人。
 なかでも心配していたのは、「再発・転移をどう生きるか」のシンポジウム。はじめは果たして出演してくれる会員がいるかどうか。そこから心配しなければならなかった。結果については書くのはよそう。後のぺージに掲載するレジュメを読んでいただきたい。重い、重い、そして光り輝く言葉が並んでいる。
 それにひきかえ、埼玉支部・今井久子さんの独唱は、「千の風」のようにさわやかだった。ほっとした。そしてわが温泉座の初公演ば、ひとことでいうとおかしかった。別に、私たち喜劇役者ではないのに、なぜかお客様に笑っていただいた。劇というものは小学校の学芸会以来だが、ひょっとすると、喜劇役者の素質があったのかもしれない。私はそう思ったのだが、同じように思った会員がほかにも居たかもしれない。そのうち、出前公演をしてほしいという注文が来るかな。心待ちにしている。今のところ、まだ注文がない。仕方がないので、10月の全国温泉大会には「押しかけ公演」をやらせてほしいと申し出ている。
それにしても、今回幹事をやってくださった埼玉支部。すごいパワーと結束力でしたね。ありがとうございました。
1・2の3で温泉に入る会・第6回総会 2005年6月12日
  シンポジューム  『再発転移をどう生きるか』

【俵】 司会の俵萠子です。
 5年前に「1・2の3で温泉に入る会」を立ち上げてから、この会では会員同士支えあうことによって、ここまで会を成長させてくることができました。
 けれどもこの5年間には再発・転移をしてこの世を旅立っていく仲問が、やっぱり何人かは出てきました。
 再発とか転移は、私たちがんを経験した患者にとっていちばん怖いことでもあります。いちばん怖い問題でありながら、このことについて正面から議論するということができなかった。それは、再発・転移をしている人に対して、再発・転移をしていない人間がどういうふうに声をかけていいか分からなかったからです。再発・転移をしている人は、そうでない人に本当の気持ちを話そうと思ってくれるのか。それとも話したくないのだろうか。まして本名で語って下さる方がいるのだろうか。
 でも、会を5年も続けてきて、そういう話を話し合えないような会ではダメなんだ。そういうことを話し合えてこそ患者会なんだと感じるようになってまいりまして、今回のテーマには再発・転移の問題を取り上げてみようと決心しました。そこで再発・転移を経験している会員の方に打診したところ、ここにいらっしゃる方々がそれぞれに実名での登場をOKしてくださいました。
 そして今日はもうひとつ画期的なことがございます。私たちのイベントの壇上に初めて男性が上がられたということです。この方は、私たちの会報7号の16ぺージに奥様の川野つた枝さんの追悼文をお寄せくださったつた枝さんの夫です。私たちの会の会員はがんになった女ばかりだけれど、ひとりでがんばっているわけではなく、家族や友だちや周囲のみんなに支えられている。だから、奥様の愛称ツコちゃんと一緒にがんばってきたひとりの男性に、来てほしかったんです。
私は川野さんを口説き、嫌がっていた川野さんを何とか群馬県から連れてきました。
 つた枝さんは平成12年、2000年に乳がんを告知されましたが、発病から5年半で永眠されました。
 次が会員の大舘敏子さん。私たちの楽しみはこのような会を開くたびに、大舘さんが踊りを披露してくれることですが、今日は踊りではなくて、パネラーとして参加していただきました。2001年の8月に肺がんを告知され、その時勧められて入ったホスピスを、3日で飛んで出たというおもしろい人です。
 昨年あたりから、息切れがして、今日も声が少し小さいかもしれませんが、それでもこうして元気に舞台に上がってくださいました。
 次がすてきな帽子をかぶっているおしゃれな千葉支部の黒坂芳枝さんです。平成14年に乳がんと分かり手術。つい先月まで再発・転移で抗がん剤治療をしていました。
 次の戸高時子さんが、平成16年4月の手術で、肺と肋骨に転移があることが分かったのが翌年の7月です。どういう順番で並んでいるかというと、がんのキャリア順で並んでいるんですね。
 それでは大舘さんからお話をお願いいたします。


心意気で再発を乗り切る


【大舘】 ホスピスの病院を飛び出してから今年の1月で5年目に入りました。
 がんを取ってしまえば1週間で退院という主治医の言葉を信じた結果が、手術後の「肺のまわり全部にがんが広がっていて手のつけようがありません」という言葉でした。
 私は死ぬことがすごく怖かった。絶対に生きていたかった。「1・2の3で温泉に入る会」に入ったものの、最初は誘っていただいても温泉に行く余裕すら心になかった。あのころは、自分のことしか考えられなかったのです。
 でもいまは違います。「1・2の3で温泉に入る会」でいろいろな方に出会い、よい刺激が生まれ、がんと闘う勇気が生まれてきました。
 ホスピスを出てから、築地の病院に4年間通い、その間に2回入院しました。
1回目の抗がん剤は、タキソテール、2回目はイレッサです。
 副作用に悩まされ、その後2004年秋、テレビで世田谷の瀬田クリニックの免疫療法のことを知り、飛んでいきました。
 「銀行に先に150万円振り込んでください。入金が確認されたら契約書を送ります。来院時には病院の主治医の許可書といままで撮ったレントゲンをすべて持ってきてください」と言われ、瀬田クリニックに向かいました。これでがんは小さくなる。自分の血液なのだから副作用もなく、絶対に私には効くと信じました。
しかし、まったく効かなかったのです。
 再び築地の病院に戻ったものの使える抗がん剤もなく、痛み止めで抑えながらも、がんは少しずつ大きくなってきています。
 2005年6月の「1`2の3の会」では酸素を吸いながらでも踊れたのに、家でその日のビデオを観て樗然としました。あの踊りには覇気も強弱もない。これが最後の舞台かと、心のなかで思いました。それから3ヵ月後に具合が悪くなり、さらにその後に再びホスピスを紹介されました。
 受付の人にホスピスの部屋に案内され、待っていた医師のお話を聞きましたが、でもなぜか心は納得できません。
 翌朝一番に「呼吸器内科に行かせてください。ここで私にできる抗がん剤があったら、挑戦したいのです。でもなかったら、またホスピス病棟に戻ります」とお願いしました。先生は「抗がん剤を受けるにはある程度の体力が必要です」と言いましたが、お電話で呼吸器科の医師に私の気持ちを伝えてくださいました。
それから普通病棟に移り、2週間の検査、さらに2005年11月、12月と抗がん剤治療を受けました。
元気なころは55キロあった体重が、いまは40キロを切り、呼吸も普通にできず、痛み止めの薬でからだはボロボロ、食欲もまったくありません。でも抗がん剤を始めて1週問が過ぎたころ、胸が痛いのです。今まで3回抗がん剤を受け、副作用はいつも苦しかったけれど、でもこれだけ副作用に苦しむということは、薬ががんに効いているからだと、自信のようなものも沸いてきました。
 年が変わり、今年の1月3日、結果が分かる日でした。180枚の写真を撮り、午後、主治医に呼ばれ、写真を穴のあくほど見つめる。「よかったですね。努力のかいがありましたね。おめでとう」と先生に手を握られました。
 これまでの感情がごちゃまぜになって涙が溢れ、涙のあとには笑いが来ました。
別にがんがなくなったわけではないのだけど、ただ小さくなっただけなのだけれど、私の心意気が通じたのだと思いました。それだけで私は報われました。そして、「1月10日からもう一度同じ抗がん剤でたたきましょう。希望に向かって頑張りましょう」という先生の言葉。
 私たち患者は常に精神的不安を感じながら、でもそれらを全部自分自身で処理しなければなりません。今は祈りや願いが小さな光となり、かつて自分のことだけで、あんなに騒いだことが恥ずかしくてたまりません。今日はこうして皆さんにお会いするのを楽しみにがんばってきました。どうもありがとうございました。


【俵】ありがとうございました。次に千葉の黒坂さん、お願いします。

治療できる喜びを教えられ

【黒坂】 再発をしたのは去年の11月28日です。犬の散歩中に突然苦しくなり、息は吸えるものの吐けない。吐くと全部咳になってしまうんです。
 次の日の朝病院で「これは喘息だね」と主治医に言われ、「とりあえず入院したほうがいい」ということになりました。
ーカ月に1回は痛み止めのコントロールをしてくれていた気心の知れた医師だったので、そのまま入院しました。
 私は手術をしたのは東京の病院だったのですが、リンパに1個も転移がなく、10年間は転移なんかない。私は平気だと思っていたんです。だから、喘息の治療が終わったら帰れると信じていたんですね。
 でもある日、先生が「黒坂さん、いい知らせじゃないんだけど、腫瘍マーカーが40ちょっとになっているから、再発し
ている」って言うんですね。喘息の治療だとばかり思っていたのに、胸骨に6センチ6ミリのがんができていました。
 4年間マーカーが上がったことがなかったし、半年に1回CTから骨シンチから必要な血液検査をやってきて、「先生、どうして半年でがんが6センチ6ミリになるの?」って聞いたら、「こうなることもあるんだよ」と。
 私の場合はMRIを撮ったときにも、ちょうど胸骨の影に沿ってがんが育っていて、あるときMRIをうつぶせで撮ったときに、胸骨のまわりにがんが膨れて大きくなっているのが写り、それで転移があるということが初めて分かったんです。マーカーもある程度がんが大きくなってからでないと、上がってこない。検査もしてきちんとやっているのに、くやしかったですね。
 「この大きさではほかに飛んでいる可能性もあるから、やっぱり最初は抗がん剤ですね」ということで、1月から抗がん剤治療を始めました。私は、フェルモルビシンというのと、エンドキサンという抗がん剤の両方をやったのですが、副作用がすごく苦しくて、ひと晩中吐いて、最後は黒い胆汁まで出てきて、それが4、5日続いたんです。普通3000以上ないといけない白血球も、私の場合は1000ぐらいになってしまって、無菌室に入る状態になってしまいます。そのために普通なら通院治療であるところを、私は6ヵ月入院しました。
でも入院だって、やっぱり楽しまないとやっていけない。今日はそれをお話ししたいと思います。
 入院って、楽しくないですよね。味覚障害で食事も水も美味しくない。ご飯の臭いを嗅いだだけで吐き気がするから、おにぎりを冷やして食べたりしていました。
 入院は6人部屋だったんですが、6カ月の間に30人近い方と知り合いました。
乳がんの患者さんが多かったのですが、皆さん病状が回復してきているときには、力ーテンを開けていろいろな話をするんです。家族のこともあれば、昔のボーイフレンドのこともあったり。そう、おしゃべりで、力が出てくるんですね。まず.い食事も力ーテンを開けて話しながら食べていると、おいしく食べられるんです。
それで「あっ、今日はけっこう食べられている」なんて思う。
 また、入院すると眠れないんですね。
そこで私がやったのは、力ーテンを閉め切って、イヤホンで音楽を聞きながら、指揮者の気分で音に合わせて手の運動をして楽しんでいました。そのうちに疲れて眠れるようになったり。
 また入院生活はどうしても運動不足になります。それでウォークマンを聴きながら、病院内を歩く。歩きながら看護師さんでも医師でも、病室で知り合った人でも、誰にでも挨拶することを心がけたんですね。
 寝るときに不安そうにしている患者さんが「あした手術なんだ」と言うので、
「お医者さんが手術するから、寝ている間に終わるよ。だから大丈夫」と肩を抱きました。そしたら涙を流しながら「がんばる」と言ってくれて。トイレのドアが開けられずに弱っているおばあちゃんを手伝ってあげたら、すっかり仲良くなったりして。住所を交換した人は30人、顔を合わせて話をしたのは50人以上です。
 抗がん剤の治療はつらかったし、6カ月の入院生活の間には、やっぱり命を落とす方もいらっしゃいました。今日の私の洋服をデザインしてくれた彼女も、胃がんで4月6日に亡くなりました。私がこのステージに立つことをいちばん楽しみにしてくれたのが彼女でした。この帽子を見た瞬問に、「私、あなたの洋服をデザインする」と,言って、デザイン画を描いてくれたんです。
 彼女とー緒だった3ヵ月の間に、命の尊さを教えられました。個室に移る前、痛みに耐える彼女の背中をさすりながら、生きるってなんて大変なことなんだろうと。
 彼女は、死ぬ問際まで、たくさんの友だちに囲まれて,家族の方にも支えられて、息も正常にはできなくなって,胃の痛みから3ヵ月問ほとんど食事をとることもできませんでしたが、だからこそ治療ができることの喜びを、彼女から教えられたのです。
 最後まで笑顔で、楽しくいたい。再発を恐れてばかりいながら暮らしたくはない。私もこれから放射線治療が始まります。自分の一生は決められているけれど、だからその目まで精一杯生きたいと思います。
ありがとうございました。


【俵】 ありがとうございました。では、最後に戸高さん、お願いいたします。

納得のいく治療、納得のいく効果

【戸高】 埼玉の戸高です。
 私は、15年前に夫ががんで他界し、夫の母を2003年に看取りました。その年の11月には心臓を患い、翌年4月には右の乳房の全摘手術を受けました。手術後に補助療法としてフェラルピシンとエンドキサンの毎月1回6クールの抗がん剤を受けました。
 12月に抗がん剤が終わるまでの間、副作用を忘れるために何か新しいことをやってみようと思い、がん関連の本を読みあさってた。そのときたまたま俵さんの「癌と私の共同生活」という本に巡り合ったのが、この会に人るきっかけでした。
 それまでは夫の残した会社の経営に忙しく、パソコンは自分が使うものではなく、若い人がやるものだと考えていたのですが、パソコン教室にも通い始めました。その後はインターネットで情報を集めたり、メールのやり取りから乳がんの友だちも増えました。
 また、新しく地域に来た中国人の方に気功を習い始めました。その先生から「体は脳が治していく」と聞き、「そうか、病は気からとはこのことだ」と、すっかり気功にはまる生活です。すると.景色とか空気とか風とかの見え方が違ってきたのです。これは私にとって大発見でした。
 長年仕事漬けで神経ぱかりを使い,睡眠も浅くなりがちだったのですが、ジャズダンスの前のストレッチ体操にも参加しています。
 補助療法が終わり、検診のため翌年の6月に再度受診しましたが、体調はよくなんの不安もありませんでした。
 私は抗がん剤が心臓病に影響がないかが心配でした。だからまず循環器の検査と、乳がんは骨転移への危険性が高いので、骨シンチを、それから血液の検査をやりましょうということになっていました。それからーカ月ぐらいは地域のボランティアをやったり、ホームステイの宿泊の世話と忙しい暮ら」をしていて、8月末に恐る恐る病院へ行きましたところ、再発の告知を受けました。
 まさかこんなに早く来るとは思っていなかりた。しかも再発転移は完治しないというのは、知識として十分にありましたので、やはりショックでした。でもドクターが「戸高さんのがん細胞は異型度がいちぱん悪い3だけれど、このがん細胞には、アメリカの乳がん学会で報告された分子標的治療薬のハーセプチンが適用するように思うんだ」とおっしゃったんです。
 分子標的治療とは初めて聞く言葉でしたが、「これは抗がん剤ではありませんが、抗がん剤と.ー緒に使うことによって、薬の効果が倍増するので、タキソールと一緒に使っていきたい」というお話でした。
相談したセカンドオピニオンのドクターも、「それはやるべきだ」との意見でしたので,決心もつきました。
 普通は仕事をしながら外来でも受けられる治療なのですが、ハーセプチンという薬は心臓に対する影響が大きいので、1泊入院をしてやっていくことになりました。9月からスタートして3ヵ月、白血球の数が少なくなってタキソールができなくなったこともありましたが、ハーセプチンは毎週やりました。
 入院による治療は、その時になってみないとどの病棟に行くか分かりません。
あるときは、精神科の病棟にあたりました。このときに、がんによるうつ病から、自殺願望になっている50代後半の女性と隣り合わせになりました。がんが心に与えた衝撃で脳の機能が低下して、幻覚や妄想を見たり、夜眠れなかったりしている様子を彼女から聞きました。
 私も抗がん剤治療の最中、布団の中で不安と恐怖に襲われ、寂しい暗い夜が続いたことがあります。がんが心の病を深くしてしまう危険を、彼女から学びました。
 また代替療法に走って抗がん剤を拒否し、結局末期になって病院に来てしまったという患者さん2人ともお話ししたことがありました。
 私も15年前に夫をがんで失ったので、自分自身抗がん剤はいやだという思いがあったのですが、ドクターの勧めと.初発のがん細胞は抗がん剤が効きやすいと教えてくれた人がいたので、自分はそちらの方向に走ることはありませんでした。
 そのような経過をたどるうちに、骨粗鬆で腰をやられてしまって、ベッドで寝たまま動けなくなってしまったんです。
でも整形外科でがんの転移ではないと聞いて、ほっとした時には、痛み方がかなり違ったことも経験しました。
 タキソールという薬を使うと、玉砂利を踏んでいるように足の裏の感覚がなくなります。指が中のほうに曲がって平衡感覚が不安定になったので、自転車をやめました。車の運転のほうが逆に平気でした。
 このまま歩けなくなってしまうのかなという不安もあり、そのことをドクターに訴えましたら、「タキソールを1月でやめて、2月から新しく承認されたナベルミンという副作用が穏やかな薬に変えよう」ということで、ナベルミンにチェンジしました。そうすると、とたんに髪の毛が生えてきまして、もうかなり伸びているのですが、今日はおしゃれをしてカツラをつけてきました(笑)。
 私の血管はかなり細くなっています。でも私の病院の研修医は血管を見つけ出すのが下手で,抗がん剤の副作用には点滴の技術も影響していることを感じました。これは何かの機会に「もっと上手になってください」と言いたいですね。
 実は肝臓にも3センチの腫瘍ができていて、胸膜にプツプツ3カ所でてきております。肺にも点というぐらいのものがありました。もうひとつは肋骨の10番に薄い影があります。この4つについては3月から4月にかけて画像をとり、腫瘍マーカーをチェックし、PETもしてもらいました。PETは自費でするにはかなり費用がかかると聞いていたのですが,保険適用で私の場合は3割負担で,約3万円ぐらいでできました。PETの結果,「肺に所見を認めず、胸膜に所見を認めず,肝臓の腫瘍が分からないぐらい小さくなり、10番肋骨だけが少し影がある」ということが分かりました。このお休みしていた期開がナベルミンのリミットになり、いまはハーセプチンだけに通っています。
 再発転移した私が今日も元気に皆さんと総会の準備をしたり、大声を張り上げたりできるのは、乳がん治療がここまで進んだということです。夫を亡くした昔の抗がん剤のイメージが払拭された思いです。
 今日は私の息子夫婦も会場にいてー緒に話を聞いてくれていますが、こうやって報告させていただけたことがきっといい記念になると思っております。ありがとうございました。


【俵】 最後に、川野さんは今日は群馬県から息子さんや娘さん7人に見送られてきたということですが、どうぞ、できるだけ多くのことをお話になってください。

夫を置いていかないでください!!

【川野】 私は皆さんのように治療がどうだというようなことは言えないので、そのかわり今目は妻のものを身に着けて来ました。使い古したハンカチとか指輪とかですね。
 本当は彼女が来るのがベストだと思うのですが、それがかなわなくなってしまいまして、自分のことしか言えないのですが、それでもいいと言うので、とにかく自分で経験してきたことが皆さんのお役に立てばと思ってまいりました。
 亡くなる前に1年ぐらい闘病生活をしていたのですが、いろいろな方が見舞いに来てくれていろいろなものを持ってきてくれるのですが、それを本人は食べられないのですね。
私はデパート勤務なんですが、デパートは勤務時間が長い。それを早く出勤して早く終われるようにしてもらって.終わったとたんにまっしぐらに病院に向かうんです。リュックを背負って、5階まで階段を駆け足。毎日家内のところに通いました。
自宅から会社へ、会社から病院へ、7時半から8時近くまで病院にいる。病院にいる間に、処分に困った食べものを捨てて、そのパックを洗ってということが毎日続いたときに、
「俺はこんなことをしに病院に来ているんじゃないんだ.家内と話をしたり、マッサージをしてあげたり、そういうことがしたくて毎日来ているのに」
と思って、お見舞いに来てくださる方には「食べ物は持ってこないで」と言ったんです。「もし持ってきてくれるなら、いちごは2個にしてほしい。そのときも妻が食べられなかったら.持ち帰ってほしい」。
 私は団塊の世代ですから、家事は苦手なくせに、でも同時に男女は平等だという教育は受けてきているんです。出来合いのお弁当を食べるなら、自分で大根おろしと魚を焼いて、納豆かけて、レタスでも切って、それを8時半ごろに帰ってー生懸命作るわけですよ。家内の洗濯物を洗って、お風呂を洗って、寝るのは12時過ぎですよね。それで朝は7時には起きて、私は職人の家に育ったので朝ごはんは必ず食べる習慣です。パンを一切れでも食べて会社に出かけます。
 毎日病院へ行く時間が5分、lO分と遅れると、家内は私の来るのを時計を見ながら待っていて、「今日は道路が込んでいた?」と聞かれる。本当に家の中でも走っている状態でした。洗濯を持って走って、干して走って。そんなことを1年近く続けました。そして妻を亡くして……。
 女性同士は「あそこにおいしい店ができたから食べに行こう」とか言えますよね。でも団塊の世代の男は男の友だちに、そういうことが言えません。仲がいい友
だちがいないわけではないですけど、なかなかできないんです。
 私が80、90過ぎならしょうがないかという気持ちにもなれます。あるいはもっと若くて30代、40代前半なら、第二の人生を目指してもいいかとか、残された子供を育てなければというところに気持ちを持っていくことができるのですが、57、8歳にもなると、ただ家で悶々としているだけです。孫の子守りという歳でもありませんしね。
 追悼文ということで依頼をいただいたときには、書けなくてずっと書かないでいたんです。そしたら群馬の石田さんから連絡がありまして、「あしたの朝までに出してくれ」って。でも何にも書けていない、けれども次の日会社が休みだったこともあって、寝ずに書いたのがあの文章でした。そのご縁で、この席に出ることになったわけです。
 私はご家族の方にどうしてもお伝えしたい。心配なことがあったら、忙しくても会社を休んで奥さんを病院に連れて行ってください。本人は仕事をしていて忙しかったりする。そんなときには旦那さんが会社を休んで、無理やりでも連れて行ってください、今こういう時代なのに、家内はなかなかセカンドオピニオンを受けられませんでした。田舎だということもあったでしょうが、すごく難しかった。
転院することもすごく難しかったです。ぜひ無理やりでも病院へ連れて行ってあげてください。これはご主人にお願いします。


【俵】 今日は皆さんの話を聞いていて、口を挟むことはひとつもありませんでした。
けれどもたったひとつ私が考えていなかった大事な結論を思いつきました。夫をひとりにしないように、私たちはがんぱろうということですね。
 今日はこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
                          ★★★★★

           θθθ総会の感想 θθθ

寸劇体験が思い出に 群馬支部:福田幸子
 
 昨年の12月に再発・転移が判明。総会のお知らせに逃げ出したいような気持ちと、それでもお話を聞きたい気持ちが、複雑に交差するなかに,東京支部の方の「元気?」「心配してたのよ」のお声がけで胸が熱くなり、心洗われる思いでした。
 シンポジウムは私なりに大変参考になり、今井久子さんの心ある歌にはただ涙、…、涙。
 寸劇「患者の気持ち」ではなぜかイケメン医師の俵さんのいつもながらのパワーに、元気をもらいました。ただただ「おまんじゅう」が気になる看護師として「温泉座」に出させていただいたことは、良き思い出となりました。
 がんになって死を意識することになって、生命は限りあることを知り、幸せはすぐ側にあることを知りました。
 「1・23の会」の仲問との出会いがあり、真にお互い支え合う。人々との交流によって固く閉ざされた私の心の傷も少し癒され、生きるってすばらしいと実感し、これからの治療に、立ち向かっていきたいと思います。

末長い勇気と希望を  東京支部:I・Y

 私は仕事を持っている関係上、東京での目帰り行事しか参加できませんが、一度お目かかった方、最初から参加していらっしゃる古い会員の方も会えば親しくお話してくださり、垣根なくがんという共通の身が親しくおしゃべりのできる場へと広めていっているように思います。このたびの総会では病身であることをすっかり忘れさせてくれる元気の集いであったと実感してまいりました。どうぞ、末長く勇気と希望が得られますように。

前だけを見つめて生きよう 静岡支部:寺田真弓

 初めまして。私は去年8月25日に手術、会には11月に入会した新人です。
 シンポジウムに行って、川野さんの奥様を思う気持ち、再発、転移をしても頑張っているんだよっていう皆さんの言葉を聞いて、よかった! 来てよかった! と素直に思いました。まだ手術から1年も経っていない私は、死という言葉から、できるだけ逃れたいと思い、最近は7号の会報もあまり見ず、会もいっそ辞めようとも思っていました。でも,静岡の方が皆さんとても親切にやさしく接してくれるので、シンポジウムだけでも行ってみようと、東京に行きました。
 行ってよかった! 聞いてよかった! 考えが変わりました。
みんな、一生懸命、前向きに頑張っている。後ろを振り返らないで,まっすぐ前に歩いている、.私は後ろぱかりを振り返って、何がいけなかったのか! 私が何をしたの! そんなことぱかり考えていた。でもそんな考えはもうやめます。

「会社を休んで病院へ」に感激 千葉支部:平塚由美子

 奥様を亡くされた川野さんのお言葉 「ご主人は、一緒に病院へ行ってください。会社を休んでも」は嬉しい発言でした。来年も,もし発言してくださる方が、いらっしゃいましたら、お話を聞きたいと思います。
 懇親会も初めて参加させていただきました。神奈川支部のダンス楽しくてまた踊りたいです。来年も必ず参加させていただきたいです。このような楽しい宴会、また秋の旅行へも参加したいと思っています。

同郷の会員とも仲良しに 東京支部:山本みさ子

 紅一点でなく「黒]点」の男性が奥様をがんで亡くされ、痛切な思いを話された時は、私ならずとも会場のあちらこちらでハンカチを使っている姿が目に入りました。
 私も乳がん・肺がんと2年続けて手術。3年目は、どうぞ無事に過ごせますようにと、神仏に祈ったにもかかわらず、最愛の主人が白血病で倒れ、9年余の闘病の末鬼籍に入りました。
どんな良妻でも主人より先に行くのは悪妻との諺、私は自分の病後のことも忘れ、主人に尽くして尽くして主人を見送ることができました。私は○でした。
 小雨降る中の懇親会場は、歌あり踊りありのとても楽しくなごやかな一刻でした。帰り際には故郷が同じということがわかった会員の方々とすっかり意気投合しておりました。参加できたことを感謝し、毎日を有意義に過ごしたいと思っています。

喜びに満たされて 埼玉支部:K・N

 突然の「あと半年から1年」の宣告、私たち夫婦は「ハッァー」としかドクターに答えられませんでした。どうしてもその言葉を受け止められず、その言葉にだんだん潰されていくのを感じながらの日々。でもその時かすかでしたが、体のどこかで「まだ生きたい」との思いをたしかに感じていました。
 まだ生きたい。私1人で、自分1人では支えられないとの思いで、ある本を開くと「1・2の3で温泉に入る会」のことが目に入り、迷うことなく申し込んでいたのです。
 すぐに励ましの手紙とともに入会の書類などをいただき、5月に申込みを済ませました。すると、吉田支部長さんより6月11日には総会がありますから、ぜひ出席してくださいとの連絡をいただきました。お手伝いもあまりできず申し訳ないなか、それでもシンポジウムを聞くことができたのは喜びでした。私以上の苦しみの中におられる方々、その病気に対する挑戦的な生き方、日々困難な生活.それでもなお他の患者さんたちのために支えになろうという生き方を目の当たりにし、私の生き方の甘え、廿さを感じ取りました。
 シンポジウムの最後に今井さんが独唱された美しい歌声と詩を聞いた時、自分を縛りつけていたロープが体からハラリと落ち,20年間心底に押し込めておいた思いが、涙とともに流れ出し、止めることができませんでした。そして心が次第に和らいでいくのが感じられ、幸福感に満たされていったのです。
「私、泣いてもいいんだわ」。
 皆で同じものを持ち、日々生活をしている仲問が私の周りにはこんなにたくさんいて支え合っている。そんな思いが体の中からムクムクと湧いてくるのを感じます。
 どこかで悩み苦しんでいる方たち吉田支部長の声が響いていますよ!
 「いいから出ていらっしゃい。何もできなくてもいいから出てきなさーい」と。

大輪の花が咲いた 神奈川支部:滝川光子

 手術後1年半を無事迎えた頃、今年の総会に向けての「劇と踊り」の練習が始まりました。踊りならまだしも、劇なんて絶対イヤ! ムリ! 学芸会のセリフのない「木」以来のことです。
でも、全国から年一回の総会に参加される方々に少しでも楽しんでいただけるのならと、ボケ始めた頭と体に鞭打って、家でも毎日練習。
 総会当日、シンポジウム「再発と転移をどう生きるのか」では、実名とお顔を出されてのご本人やご主人からのお話。辛さ、苦しさを共有される方からのお話は、総会に参加される方々のためにとの思いがひしひしと感じられ、胸に迫るものがありました。「同病傷をなめ合つ」などという弱々しい話ではありません。
 本人も家族も同じ。こんな苦しみや不安の「現実」がある。しかし、それに潰されずに,支えてくれる家族や友人に感謝しつつ、明るく勇気を持って生きていこう。体は病気でも、心は絶対病気になんて負けるもんか!
 劇もユーモアがあり、病気を笑い飛ばすグッドな出来! 締めは懇親会での「世界で一つだけの花」。会場がその名の通リ「一つの大きな花」の和となって咲きました。もう、 最高! です。

「千の風になって」を歌って 埼玉支部:今井久子

 シンポジウムのアトラクションで亡くなった会員川野つた枝様のご主人のために、ぜひこの歌を聴かせてあげたいという俵代表の要望で、不慣れで下手な私ですが,一生懸命に歌いました。
 私たちがん患者は、転移などの命の不安を抱えています。私は左胸乳房全切除、腋窩リンパ切除の術後2年目です。この歌と出会ってから「そうだ、もしものことがあっても怖くないんだ。主人や娘たちのそばにいられるんだ」と思えるようになりました。この歌は、私にとっても心の安定剤のような気がします。

さらに有意義な会に 千葉支部:小倉孝子

 昨年は隣に座っておられた黒坂さんが、パネリストとしてお話しされたのにはびつくりしまいました。入院していますというお手紙はいただいていたのですが、お元気そうな姿にホッといたしました。
 皆さんのお話もわかりやすくて、共感を呼ぶものでした。皆さんがそれぞれに良い治療法にめぐりあえて、納得できる医療を受けておられるようで本当に良かったと思います。
 川野さんは、ほのぽのとしていて、奥様はさぞお幸せだったのでしょうね。でももう少し生きていてもらいたかったですね。涙なしには聞けないお話でした。


  埼玉支部から、熱い風が吹く!
支部としての挑戦 埼玉支部長:吉田喜巳子

 今回の「総会」に携わることはまさに未曾有への挑戦であった。準備期間中に予想以上に育まれたチームワークで支え合い、大きな不安を振り払った。
 生じたトラブルは「伊達にこれまで生きてきたんじゃないサ」の度量で克服!!
 ベテラン会員も新人もスクラム組んで頑張った。我を忘れて懸命に挑んだ。
 今までに見たこともない輝いた目、真剣な表情、細やかな配慮、「この人仕事は何しているのかしら……」生まれ持ったもの、培ったもの、鍛練されて得た技。皆がそれぞれに個性的にがんばり抜いた日々だった。
 縁あって今私は「徒然草」を読んでいる。「されば人死を憎まず、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」に涙があふれた。
 私たちは、がんという病気を患いながら存命の喜びを人一倍かみしめ、今日にある。そしてその「生」は価値ある「生」となり、「宝」として尊び、日々を楽しませてくれている。死と隣り合わせに生きているからこそ生かされる喜びを楽しめるのだ。
 私の2本の腕は支部の人たちの何本もの腕に支えられ、大事業をなし得た。
 また綿密な連帯感が生まれたことは得難い「宝物」である。今回の貴重な体験を礎に、また新たな挑戦を試みてと切に願うところである。
 無事終了できたことは皆様のご協力の賜物でもある。支部長として心より御礼申し上げる。

貴重な体験  斉藤邦子

 昨年の役員会で「次回総会の主催は埼玉」と決まった時は、「いったいどんなことになるのだろうか」というのが私の正直な気持ちでした。会場選びから始まり、私も吉田支部長の代理で、大宮ソニックシティの抽選会に行き「はずれー」となってしまったということもありました。年が明け、4月中旬に役割分担が決まり、私は控室の責任者に決まりました。
 いよいよ当日。控室は私を含め、3名。仕事は控室へご案内した方へのお茶出し、シンポジウムに出席される方々への接待などです。
 当日は、控室での荷物番もあり、ホールの客席へはとうとう一度も行けずじまいでした。例年のただ出席してお客様でいたのとは大違いの立場を初めて経験しました。

成し遂げた満足感  鈴木エイ子

 新年早々に「今年の総会の当番は埼玉支部です」とうかがって「エッ!会員同上の顔も名前も知らず、つながりも希薄なのに!」と不安がありました。
しかし、時が進むにつれ、支部長さんが会員に連絡をとり、打合せも回を重ねるごとに集まる会員の人数も増え、次第に「埼玉支部の責任においてやりましょう」という心構えを感じられるように、係の分担、配置、打合せ、諸事情の確認とスムーズに進行しました。
 総会当日は「なるようになる、ドンといこうー」と腹を決めました。
 当日、雨のなかおこしいただいた会員、一般の人が最初にお目にかかる「会の顔」は道案内と受付です。清潔感、人情感を表現し、明るく接することを心がけ「いざ開始!」
 ●受付時間前にお越しいただいた方に渡す書類の不備
 ●名簿の中で個人の名前を捜すのに戸惑い
 ●受付開始時、一度に混みあい混乱などの反省点もありましたが、会員手作りの総会です。完壁とはいかないまでも係一同その場その場を臨機応変に助け合いながら、あっという間の1日を乗り切りました。

黒子役を終えて  久保田芳枝

 「ペット検査を受けるように」と、CT検査の結果を医師に告げられたのが、総会の3目前のことでした。
 「再発?」が頭から離れず、支部長とも相談し、総会の翌日に検査することに決めました。
 当日は検査のことも忘れ、ステージ係として、寸劇の舞台セットに夢中でした。
 初めての体験で慣れないため、不安もありましたが、周りの方のアドバイスやご協力のおかげで、なんとか役割を果たすことができ、ホッとしました。
 今は検査結果も良く、こうしてペンをとることに喜ぴを感じています。


                          
★★★★★
温泉座旗揚げ公演  事務局:武井芳恵

 病気をして感じたこと、言いたいことを、笑いに包んで観ていただきましょう。劇団「温泉座」の旗揚げです。
 「脚本は私が、書きます」という俵代表の力強い言葉に、「できるかしら?」と不安いっぱいながら、総会の準備が始まりました。
 脚本の仕上りを気にしながら、各支部ごとに時間調整を」て練習です。
そして総会直前の6月7日。やっと、全員集合して会場でのリハーサルになりました。
 NHKの取材カメラも入って熱が入ります、
 舞台経験のある吉武輝子さんらの演技指導にも大助かりです。
 「そのセリフはこうしたほうがよいのでは?」「ここはお客様のほうを見て」とお互いにアドバイスしながら、時間のたつのも忘れるほどでした。
 さて成果のほどは、いかがだったでしょうか?初公演としては、上々の出来だったと思いませんか?
 心配したお客様の人りも、雨模様の天気にもかかわらず出足がよく、ほっとしました。
 シンポジウムの反響は大きく、少し重いテーマではと思っていましたが、本当にやってよかったと思っています。出席者のお話にたくさんの人が勇気づけられました。
また、会員の方々のがんに対する考えを知るアンケートも、石塚、菅居、菅又のお三方のお陰で実施することができ、会にとっての大きな前進となりました。
 当番支部だった埼玉の皆さま。裏方として本当にお世話になりました。
 ありがとうございます
そして、会場にお出かけくださった会員の皆様、ありがとうございました。またお目にかかりましょうね。
 
支部ニュース
                               ◆
東京支部より  東京支部長:福田志津江

 会員数74名、参加してくださる会員さん一人一人を大切に固い絆で結ばれております!
 1月15日、豪華な目黒雅叙園にて毎年恒例の新年会を如名の参加で行いました。
 3月19日、渋谷NHKホールのがん患者大集会に東京は42名参加できました。
 5月14〜15日、初めてのマイツアーバスの旅、房総白浜温泉32名参加、雄大な太平洋に面した全室オーシャンビュー。群馬から駆けつけた俵代表を迎え、大宴会と温泉ドボン!

   翌日は「母の日」力ーネーション摘みに心弾み若返る

  石塚    金子
小海 安保 福田 大館 菅居 宇野

 翌日は「母の日」力ーネーション摘みに心弾み若返る。海ほたるも “感激”。
 6月11日、女性と仕事の未来館。第6回総会に42名の方に参加いただきました。
 シンポジウムヘ東京支部からは大館敏子さんがご出演くださいました。東京は寸劇2幕がんぱりました。演目、演者ご紹介します。
 @「すてきなおっぱい」 : 石塚治子さん、堀田由巳子さん、福田
 A「決して白旗は挙げない」 : 俵代表、吉武輝子さん、福田
 演者の皆さんお疲れさまでございました。何しろド素人の私たちハラハラドキドキ心配でしたが、古武輝子さんにご協力いただき、おかげさまでなんとやり遂げることができました。

七十歳の新人の旅 東京支部:黒田匡代

 「うああーきれいな夕日!! 来てよかった!! 幸せ!!」
 ホテルの窓からの日の入りに思わず声が出た。東京支部の「安房・白浜のバスの旅」(5/13,14日、32名が参加)をやさしい心遣いですすめてくださった福田支部長に感謝する。往路,バスの中で病名、年齢、環境まったく同じ新入会のKさんとの素敵な出会い。水平線が丸く見えた野島崎灯台の見事な眺め。明るい笑顔笑顔の夜の宴会ではエネルギー満杯の俵代表の両隣に70歳の新人2人がかしこまっての記念撮影。その後の二次会で代表の日本医療への提言のなみなみならぬ情熱に感服。しかし鬱に悩んだ時期があったとの話に親しみを感じた。待望の大浴場では皆伸び伸び、堂々と手足を延ばしての入浴は壮観だった。
 翌日は快晴。フラワーセンターで母の日の力ーネーションを賑やかに選ぶ会員たち。そして古刹名堂寺、静寂の深山に一宇の御堂がひっそりと建っていた。慈愛に満ちたお顔のご本尊が私たちを迎えてくれた。おびんずる様を皆真剣になぜた。道の駅では新鮮な野菜を両手いっぱいに抱える会員たちに日常が顔を出す。最後のアクアラインでは海の真中の「願いの鐘」を力いっぱい打ち鳴らした。
 共通の病を経た仲問だという安心感、連帯感がこの旅の楽しさを倍増してくれた。先達の言葉が今の心境にぴったりである。「人は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。それも一瞬早すぎず一瞬遅すぎない時に」

                          ★ ★ ★
京都支部
  グルメ旅行  東美智子

●2月27日、武生市在住の堀川さんの紹介で「カニ」で有名な越前海岸へ1泊旅行。武雄の町を1時間ほど散策。
 京都とよく似たお寺の多いとても静かな街です。おそば屋さんの看板が目立つ街でもありました。翌日のお昼には、その「越前そば」を食べるのを楽しみに一路越前海岸へと向かいました。
 寒い中を来て本当に良かった、とても美味しい「カニづくし」のお料理で、体重が2キロは増えたと大騒ぎでした。温泉に入り、いつもの通り夜遅くまで、語り明かしました。
 治療しているにもかかわらずマーカ
ーが下がらず悩んでいる人がいます。治療もきつく、今回も出席するかどうか、ずいぶん迷った末でしたが、みんなと会って、話することで、気が晴れるのではと参加したとのことです。
 他の1人は、2月初めから22日まで10回放射線治療を受け、副作用で、食欲がなくなり、とてもつらかった。でも今回の旅行で、美味しいものがいっぱい食べられて幸せだったとのこと。
 お昼の「越前そぱ」は「からみ大根おろし」「ネギ」「けずリガツオ」と少しのお出汁でいただく、あっさりとした「おそば」です。その後「そばがき」の「おぜんざい」も食べて、これもたいへん美味しかったです。帰りには、堀川さんの素敵な新築のお宅でコーヒーを、ご馳走になり、次回は全員が集まれるのを楽しみに、お別れしました。
 帰宅した私の部屋では越前岬の水仙畑でもらった水仙がいい香りを放ってくれました。
●7月16目には、梅雨の晴れ間がのぞく字治川畔で食事会。
 宇治といえぱお茶処。抹茶七服分を使った「お抹茶会席」で実にあっさりとしたいかにも体に効きそうな食事で
した。今回は、9名のうち4名が欠席でした。4月に入会された新会員さんが見えるかと楽しみにしていたのですが、残念ながら欠席。Nさん、Hさんは直前まで出席したいといってましたが、2人とも体調が思わしくなく、とても残念です。
 こうして体調の思わしくない人のことを聞くと、今私は健康なだけに、よけい悲しく切ない思いです。秋の「全国大会」には、全員が出席できるよう治療がんばってください。


                          
★ ★ ★
  みちのく支部の会報「にこにこだより」

 みちのく支部は小野寺勢津子支部長の
 あとを梅津いつさんが連絡係として引
 き継いでくださることになりました。
 これからもよろしくお願いいたします。

                          ★ ★ ★

兵庫支部
  
二つの旅をしました  山田英子・坂本尅子

●4月16日、近鉄鶴橋駅集合、伊勢志摩らいなーで鳥羽に向かう。
鳥羽水族館で、なつかしく楽しい一時をもつ。
 鳥羽湾めぐり観光船に乗船。きらめく海、島々はまさに春色。鳥羽「戸田屋」12階の角部屋に宿泊。180度海を見渡す景色は圧巻。野天風呂を1・2の3で楽しむ。
 翌日は,夫婦岩を訪れる。
 伊勢神宮に参拝。内宮、外宮ともによく手入れされ、うっそうと茂る木々にも安らぎを覚える。その後はおかげ横丁に遊ぶ。おかげ岩では江戸時代のお伊勢参りの数々のシーンの再現もあり、往時を偲び、字治山田駅より鶴橋へ帰途につく.
●6月29日、神戸市立森林植物園にて「森林浴をしよう!あじさい見物」
この植物園は総面積142.6ヘクタールの樹林で六甲山地の西部に位置し、六甲山をはじめ,目本の代表的な樹木や世界各地の樹木を原産地別に植栽している。
 風景を楽しみながら、日本や世界の森巡りをし、早春の花々や新緑“梅雨のアジサイ”“森のシャワーで森林浴”等楽しい1日を過ごし、なんだか生命が延びたような気がいたしました。

                          ★ ★ ★
九州支部
  
遠くても、小さくてもがんばっています  月足美智子

 3月20日(月)に福岡県の会員6名と鹿児島のMさんで福岡に集まり、食事会をしました。
 楽しい会合を重ねるうちに、心が通じ合い「1・2の3の会」へ前向きに参加していくようになると思っています。九州は遠く人数も少ないけど、まとまっていくようになりたいと望んでいます。
 宮崎の1人会員Yさんも「どこへも出席できないし、退会したい」といっていたのですが、電話で「ちゃんと会員でいてください。お電話したりして、会のことも身体の悩みも話しあいましょう」とお話して「ではちゃんと入っておくわ。いろいろ知らせてね」ということになりました。よかった!!
 私も3月の検査で右も左もリンパが腫れてきて、肝機能も高くなりましたが、楽しいことを考えて「大丈夫、大丈夫」と、1人でつぶやいています。
 大正琴も九州大会に向かってがんぱっています。下手な投稿も楽しんでいます。
 九州の会員には70代の人が少ないけど、若さをもらおうと思っています。

                               ◆
本部役員名簿
北海道支部長 通崎久恵 Tel 011-813-3255
Fax 011-824-7647
*東北雪んこ支部長 奈良孝子 Tel 018-873-4908
静岡支部長 萩本芳子 Tel 0538-23-3420
*京都支部長 安井美津江 Tel 0748-36-8769
大阪支部長 岩川澄子 Tel 06-6718-3164
兵庫支部長 小橋ゆきえ Tel 0792-77-1198
*九州支部長 内田有紀 Tel 096-245-2295
<地方連絡係>
みちのく地区 梅津いつ Tel 022-358-0989
茨城 五十嵐たみ子 Tel 0297-78-5290
千葉 平塚由美子 Tel 0478-73-5269
東海地区 美坂みどり Tel 052-409-1268
岐阜 越川幸子 Tel 0577-32-2988
*東北雪んこ支部 青森・秋田・山形
*みちのく地区 岩手・宮城・福島
*東海地区 愛知・三重
*京都支部 滋賀・奈良・京都
*九州支部 福岡・長崎・熊本・宮崎・鹿児島
代表  (東京)

(赤城)
俵 萠子 Tel 03-3381-5222
Fax 03-3381-8777
Tel 027-288-7000
Fax 027-288-8700
 
副代表 東京支部長 福田志津江 Tel 03-3302-6734
神奈川支部長 増田涼子 Tel 046-843-8182
群馬支部長 佐藤宮子 Tel 0270-65-7585
埼玉支部長 吉田喜巳子 Tel 0493-54-4116
新潟支部長 高橋はるみ Tel 025-784-3333
Fax 025-784-4047
埼玉支部 本橋キミ子 Tel 048-285-4038
群馬支部 坂本すみヱ Tel 027-363-0622
群馬支部 広瀬朝子 Tel 027-343-1539
会計 東京支部 堀田由紀子 Tel 03-3965-0218
会計監査 東京支部 新出富貴子 Tel 03-3471-4903
Fax 03-3471-4001
神奈川支部 佐々木晶子 Tel 042-774-8523
事務局兼会計 群馬支部 石田とき江 Tel 0279-52-2231
事務局 群馬支部 武井芳恵 Tel 027-352-0842

新連載○がんにもらった『素敵な人生』第5回
これからです。 ―― がん対策基本法ができて
                                         俵 萠子
                               (月刊「がんを治す・完全ガイド」2006年8月号から転載)

 読者の皆さんも心配してくださっていたと思います。
(がん対策基本法)のことです。
 先月号で、「どうなるかしら……」 「でも、私の力ではどうにもできないし……」と気を揉んでいた法律のことです。
あの法律が国会を通りました。6月15日に、全会一致で可決されました。

                             ☆ ☆

 この法律(2007年4月1日施行)の目玉は、
@がんの研究をもっと進め、その成果を誰もが、どこにいても、受けられるようにする。
   (俵のコメント……現在は、貧富の格差、地域格差がありますものねえ)
A「がん対策推進基本計画」をつくる。そのために「がん対策推進協議会」をつくって意見を聞く。
   (俵のコメント……協議会の中に、がん患者等を代表する人を入れるという部分が画期的。今までは“がん患     者抜き”でした)
B基本的な政策は「がん予防、検診の推進」「がん専門医の育成」「がん医療の拠点病院をつくり、病院間の協力体制をつくる」「患者のためにがんの新薬や医療機器をできるだけ早く使えるようにする」の5つ。
   (俵のコメント……大学病院と地域病院の協力だって文部科学省と厚生労働省のカキネがあって難しいのデス    頑張ってほしい)
C厚労省に、Aで書いた協議会をつくるため「がん患者等を代表する者」「がん医療に従事する者」「学識経験者」で構成する会をつくる。
   (俵のコメント……日本の行政史上はじめて、政策立案過程に私たち患者の代表を出せることを、私はスナオ     に喜びたいと思います)
                             ☆ ☆

 いや、しかし、このほかにも、この法律には19個もの付帯事項がついている。たとえばどんなことかというと、
 (付帯の五……がんの治療法に関する情報については、手術療法、放射線療法、化学療法その他のがんの治療法についての最新の情報を、できる限り平易な言葉で国民に提供する体制を整えること。)
  ――とあります。
 実は、私は、この法律のご紹介(前記)に当たって、すっかり翻訳し、私たちの日常語で書いてみた。そうでないと読者の皆さんの頭にスイスイ入っていかないと思ったからだ。「がん情報センター」が“できる限り平易な言葉を使う”というのは当たり前だ。わざわざ「付帯決議」に入れるところが、私たち国民にとってはむしろ不思議である。ついでに言えぱ、パソコンの使えない高齢者のことも忘れないでもらいたい。
 付帯の六は、嬉しい内容だ。
 (病状、治療方法等について、患者が医師等の説明を埋解し、納得した上で治療法の選択ができるよう、正確かつ適切な情報提供の推進、セカンドオピニオン外来、医療相談室の拡充に努めること。あわせて.セカンドオピニオンを受けるために必要な診療状況を示す文書やデータ等の提供について、患者の求めに応じて迅速かつ適切に対応するよう、医療機関に周知徹底を図ること。)
                             ☆ ☆

 読者の皆さん。
 嬉しい法律だと思いませんか?
 今まで、かかりつけの医師に、「ほかで診てもらいたいのですが、カルテや検査結果の資料を貸していただけませんか?」
 おそるおそる言う時、私たち患者がどんなにビクビクしていたことか。どんなに言い出しにくかったことか。私は、そのたびに思った。出した血は、私のものなのに。写した肺は、私の肺なのに……。そのためのお金は私自身が払ったというのに……。自分で金を払ったのに、自分の物にならないというヘンな物がこの世の中にあるということが、私にはどうしても理解できなかった。
 今、それがすっきりした。
 この法律をつくってくれた人、ありがとう。
 私たちの仕事は、これから時間をかけても、この法律に肉をつけ、魂を人れていくことだろう.、でも、ホンネを言えば、あまり時間をかけて欲しくはない。今すでに、がんの痛みに苦しんでいる人にとって、5年後に緩和医療がよくなっても役に立たないからだ。
 がん患者にとって、今すぐに欲しいのは、今この痛みや息苦しさから解放されることであり、今日のQOL(生活の質)が穏やかになることなのだ。再発しても、転移しても、希望が持てる日本になってゆきたいと願う。
                          ★ ★ ★
私の体験
   新潟支部 : H・M

 平成16年は生涯忘れられない出来事がいくつもありました。7月の大雨、8月に父が亡くなり、10月23日にはこの世の終りかと思えるほどの大地震に遭いました。
 地震のために家は半壊。家のあちこちはガタガタでした。応急修理もできずに年が明けました。大雪になり、そのためにいつもの年よりこまめに雪下ろしをしなければなりません。下ろさないと家が壊れてしまいます。現に近所でも潰れた倉庫がありました。
 いつもは夫がやってくれるのですが、あまりの雪の積もり方のためにいてもたってもいられなくて、大屋根に上ったのです。少しでも降ろしておけば屋根が軽くなるだろうと思い、大屋根から小屋根に降りるときに、梯子から落ちてしまったのです。
 たかがlm位のことで、小屋根にも雪が積もっていたために、そんなに痛くはなかったのですが、お風呂に入ってビックリ。あちこちに青アザができていたのです。しょうがないなあと思い、でもこれは時間が経てぱ治ることと気にしないことにしました。
 数週問が過ぎる頃、お風呂場の鏡を見て、「ああ、キレイになってよかった。ところでおっぱいにもアザができたんだけど右?左?」と両方を触ってみたら、左の上のほうに硬いしこりがあったのです。
 しこりは何回触ってもあるのです。それは3月の下旬のことでした。4月に入ってすぐに病院に行きました。
 最初は組織をとって「やっぱりがんでした」と言われ、ああ私は死ぬんだと思いました。もう目の前が真っ暗でした。
 いろいろと検査や説明を受けて、全身麻酔でやりますと言われたときには、思わず「怖い」と言ってしまいました。
 医師は手術まで何回でも説明するので、いつでも来てくださいと言いました。
 無事に手術も終わり、これで悪いところはとったのだから、もう元気溌刺今まで通りの生活ができると私は単純に考えました。が、この病気は手術の後もずっと病院との長い付き合いになるのだとわかったのは、退院した後のことでした。
 抗がん剤の点滴と放射線の照射、そして血液検査等々。今年5月12日で、手術から満1年になります。自分が病気になってようやく乳がんの勉強を始め、検診もしっかりと受けておけぱ良かったと後悔もしました。
 親や兄弟、親戚も皆が米寿のお祝いをするほどに長生きをしているので、自分ががんになるなんて絶対にないと根拠のない確信をしていた私でした。平成17年9月に97歳で母を亡くしました。
 今、一番不安なことは、転移と再発です。屋根から落ちてアザができなかったら、今も私の胸でがんがもっと大きくなっていたと思います。
 がんの初めは本当にいたくもかゆくもないのですね。
 田舎に住んでいるためにいろいろなうわさ話にされそうで、がんのことは家族と兄弟しか話をしていません。とっても孤独でした。時間が経ったらいつか公表できるかもしれませんが……。
 その後「1・2の3で温泉に入る会」を知り、1月に新潟支部の集まりで皆さんの話を聞かせていただきました。支部長の高橋さんのホテルは、かの有名な川端康成の小説「雪国」を執筆された部屋がそっくり残る高半ホテルです。温泉ももちろんとっても良い源泉です。がんは横に置いておき、皆さん温泉に入りに来てください。
高橋さんがとってもすてきな女将さんなのです。
 これからはがんと上手に付き合って生きていこうと思っています。

                          ★ ★ ★

楽しいボランティア活動   千葉支部 : 路野朝子

 昨年より、近所の小学校で「ふれあいボランティア」をさせていただいています。スクールガードや授業にも参加しており、小学生とのふれあいが、とても楽しく、ボランティアの中でも、一番大事な時間です。
 最近は事件がいろいろ発生していて、ここ佐倉市でもチカン、露出症がかなりあり、心配はつきません。
午前・午後にわけて班を作り、活動します。校内、校庭などを巡回し、午後の部は低学年の集団下校を校門の前で「さようなら、気をつけてね!!」 と声かけしながら見送ります。
 とくに1年生のかわいさは格別です。3学期の後半には2年生のクラスに招待され、1年間の学習成果の発表を見学し、ひと言感想を伝えました。6年生では茶の湯体験授業にも参加し、茶の湯の会が、ボランティアで、お点前をして下さり、われわれも隣の公民館の茶室で、おいしいお茶とお菓子を、一緒に味わいました。
 この学校は、給食センターではなく、自校で給食をつくっています。
その日はワールドカップにちなんで、コロンビア料理でした。おしゃべりをしながら食しました。
 教師との交流会もあり、市立小学校の中でも、ボランティアとの交流はとても評判が良いです。生徒に「みちの先生、ありがとう」と言われると、疲れが飛んでしまいますよ。
 「1・2の3会」の皆さまもこんな楽しいポランティアをなさいませんか?

                          ★ ★ ★

転移がんを友に「ロシア旅行」  埼玉支部 : 鈴木エイ子

 乳がんから転移癌とのお付き合いを始めて、がん細胞の静・動、治療の有・無との繰り返しで15年を迎えました。
 昨年1年問は抗がん剤点滴治療のため、どこへも行くことができず、その反動で「治療が終わったら絶対どこかへ飛んで行くぞ!」と決めていました。幸いがんも安定し、年末には治療を終了しました。
 今年は経日薬に変更し、その効き目もよろしく、チャンス到来です。
 主治医に「休薬期間中にロシアに行きたい」と話したら、「行く前に必要な検査をする」条件で許可をいただきました。
 1・2の3の会の総会終了後、9日間の日本脱出となりました。
 海外に行くときはいつも、主治医から常備薬(熱が出たときの薬、下痢、胃腸薬、時差のための軽い睡眠導入剤)を処方していただいて、今回も持参しました。でも、今回は未使用ですみました。
 私の必需品は「副作用で髪が満タンでないためのかつら」「リンパ浮腫のマッサージ薬」「温泉の素入浴剤」です。
 ツアー客の7割が中高年で、ほとんどの方が何らかの病気を持ち、薬持参です。食後、だれかれともなく薬を服用する姿に、目を合わせては苦笑いです。
 「がんを3回も手術した人」「胃を3分の1とった人」「胃のポリープ摘出」「糖尿病」「高血圧」その他ポツポツと病気の会話が耳に入っていました。
 でも、皆さんに共通することは、明るく、前向きに、病気の話題が出なければ全然わからない。自分白身の体を管理しながら、旅行を楽しみ免疫力のアップもそのものでした。
 「ロシア」は想像以上にスケールの大きな国でした。モスクワは色鮮やかな高層ビル群、スズダリ、ノブゴロドは中世の建造物、サンクト・ペテルブルグかつて繁栄したロシア皇帝の遣産はすばらしいものでした。
 広大な土地、森林.緑の大地。その地を訪れた現地の景色の感動はあまりにもすばらしく、表現できません。
 また寒いという先入観で皆さん、セーター、厚手の靴下、手袋、ホカロンと寒さ対策は万全でしたが、ロシア着後の翌口から30度〜33度の真夏日で、河岸はモスクワ子「ヌーディスト」たちのスッポンポンの姿。
目のやり場に困りました。
 帰国後は、現実の世界に戻され、2週問後には病院の予約が待っていました。
 チャンスがあったら、希望を持ち、がんを友として、ふたたび動ける幸せをかみしめたいと思います。
ミニミニニュース

事務局新人さん紹介

 定年退職後、のんびりしていましたが、友人のお世話で1・2の3の会で事務をすることになりました。
俵代表や、会員の皆様、支援してくださる方々との触れ合いの中で成長していけるよう、真面目に取り組むつもりです。
      
                             木村ひろみ (元群馬県教員)
                          ★★★★★
1・2の3の会が紹介されました

「1、2の3で温泉に入る会」〔Vol.7 2006年3月、A4判28頁〕をいただきました。「あなたに出会えてよかった」というコーナーが設けられています。亡くなられた会員への追悼の言葉や思い出やご家族の声が紹介されています。これは、ご家族にとってどんなにか心が癒され、励まされることでしょう。誰もが死を迎えます。先に逝った人への思いと交流を大切にし、そこから多くのことを学ぶ姿勢は、生きる力、勇気にもつながるものと思います。
 「1・2の3で温泉に入る会」は俵萠子氏が代表の患者会です。
.
                        (「どんぐりの会」分会「青空の会」の会報より)

                          ★★★★★
こんなのって許されますか?   事務局 武井

 とても悔しい思いを致しました!!
 群馬支部のSさんが8月2日の支部旅行の計画のため、O温泉のホテル「A荘」へ電話し,担当の女性の方と順調に話が進んでいたのですが、乳がんの患者会であることを告げたとたん、「夏休みで、お子さんのお客も多いことですし」と別のホテルの電話番号を教えられたそうなのです。乳がんの傷跡は、子どもに見せてはいけないのでしょうか?
 Sさんもその時はビックリしてしまい,そのまま引き下がりましたが、悔しいので、再確認しようと、再び電話したところ,「当方ではそのようなことはございません。皆さま平等にご利用いただいております。もしそのような応対をしたものがいたとしたら、申し訳ありませんでした」
と今度は男性の支配人が対応したそうです。
 他のホテルの電話番号を伝えられたのは事実ですし,問題が女性の対応によるものだったというのがなんとも残念です。支部では別のホテルで話を進めています。
 萠子さんへの 手紙
                          ★ ★ ★

シンポジウムを終えて
  千葉支部 : 黒坂芳枝

 あの日は10人の病院仲間が来てくれました。その中には、かなり病状が進行している方もいらっしゃいましたが、川野さんのお話や、歌にすごく感動したそうです。
 まだ生きたい。“風”にはなりたくない。がんばって生きていこうと思ったそうです.私も入院仲間が心から喜んでくれ、楽しい入院生活だったことを思い出しました。仲間たちは「辛ったけれど、幸せだったね」と言ってくれました。うれしかったです。
 ところで私は今、慶応病院の上階のレストランにいます。外苑の緑が鮮やかで私の心を癒してくれます。21日から放射線治療がスタートしました。今日で9回目です。予定では25〜30回ということです。今日の診察では、少し痛みが弱くなったような気がします。
 抗がん剤治療に比べれぱ、放射線は楽なように思えますが、それでも帰る頃には、足がだるいとドクターに話すと、「千葉は近いでしょ、沖縄から毎日飛行機で来る人もいるのだからね」と言われてしまいました。
 残りの日々、白分に“喝”を入れて、少しはおしゃれもして、がんばりたいと思っています。
 そんな私を見て、いつも娘が言います。「お母さんは流行遅れだから」って。失礼ですよね。でもその通りなので、私も大笑いしてしまいます。
 家事や、少しの育児や、近所の子の世話などできることがどんなに幸せか、今感じています。
 亡くなった友人が家に帰り、少し家事ができたらいいなと夢見たそうです。その家事ができたのは、家族や友人や会の人など、多くの人の応援が私の力になったからだと思います。とりわけ主人のがんぱりには頭が下がります。  息子もバイトを2つもして自立しつつあります。家族ががんぱってくれている姿が大きな励みです。
 この前の骨シンチの検査で、腰のほうに少しうっすら影があるといわれてビックリしました.主治医の意見は、これからの経過を見ながら、この次の抗がん剤治療が必要ですとのことでした。
 再発、転移とは終わりのない闘いですね。
 でも、これからも乗り越えていき、孫に本を読んであげる幸せな一時が1日でも永く続くように。1・2の3の会の温泉に行くという目標もあります。まだまだ楽しいことが待っています。がんぱりすぎずのんびり付き合っていきます。  またお会いできる日を待っています。

                          ★ ★ ★

俵さんの対談に想う  九州支部長 : 月足美智子

 去る7月5日のNHK教育テレビ「福祉ネットワーク」の番組で俵さんの話を聞いて私なりに感じたことを書かせていただきます。
 会員として今まで聞いていた内容ですが、そのたびに感じ方が違います。
 最初は、「まあ、そうだったのか。俵さんも苦しまれたのだなあ」と思いました。
 しかし先日のテレビでは俵さんが明るく笑顔で病歴を語られるのを見て「すごいなあ」と思い、心打たれました。これまでに交通事故や乳がん、うつの苦悩を乗り越えてこられたのは、きっと目に見えない神の守りと、運がついていたのだと思います。もちろん努力は第1です。
 苦悩が現在の前向きな生き方と活躍のエネルギー源になっているのでしょうか。あの笑顔での対談は、病気で苦しまれたことを感じさせませんでした。私も「もっと強く前向きになろう」と、ファイトがでてきました。
 私も最初は温泉に入るのはいやでした。しかし退院してーカ月目にプールに行きました。服を脱いだり着たりするときも、みんなの目を気にし、急いで水着に着替えていました。
プールから上がって水着を脱いでシャワーを浴びるとき、身体を洗うとき、お風呂に入るときは周りに人がいるので、なるべく反対の方を向いて周りの視線を避けていました。
 しかし「1'2の3で温泉に入る会」に人会し、次第にそんな気持ちは消えていきました。「私は悪いことをしたのじゃない。手術しただけなんだ。これが本当の自分なんだから、人に気を遣うことはいらないのだ。強く前向きになろう」と今ではそう思っています。
 最近ではタオルも当てず堂々としていますが,少し手を当てることもあります。「これが乳がんの手術のあとの傷よ」と、平気で言っています。みんな「まあ、たいへんだったね」と、優しい言葉をかけてくれます。
 隠そうと思ったら、自分がみじめになるだけ。考えると乳がんは私にいろいろなものをプレゼントLてくれました。「よし、やってやるぞ」という元気も、何事にも強く積極的にチャレンジするようになりました、
 私も自分なりに前へ進みたい。女性としてーつの乳房の姿を見ると悲しいけれど、それを忘れるためにも残された人生は楽しく生きたいです。
 私は全国の人に訴えたいことがあります。それは乳がん患者に対する偏見をやめてほしいと言うことです。地方にはがん患者に対する偏見がまだ残っています。結婚にもさしつかえると聞いています。でも日本人のほとんどががんを体験する時代です。誰がいつがんになるかわからないのです。

                          ★ ★ ★

美術館の思い出     戸高時子

 梅雨の晴れ問、明るい陽ざしが深緑の並木に小さな影を落としています。
 第6回定期総会も無事終えることができ、みんなの力の結果が俵さんを支えた、とてもすてきな催しであったと思います。処理しなけれぱならないお役目も多くおありのようですが、もう次のことへ進んでいらっしゃることでしょうね。とにかくお疲れさまでした。
 埼玉支部の方々とはまだお目にかかっておりませんが、皆さん,生懸命、力を発揮なさっていたと思います。
 私にとって、初めての俵萌子美術館には俵さんの魂がこもっていることが感じられました。すてきなご両親の愛情いっぱいにお育ちになり、いい感性と頭脳がご自身の努力により年々開花して、現在があるのですね。
 俵さんの創作器で昼食をいただいた感動は生涯忘れることができないでしょう。本当にありがとうございました。

                          ★ ★ ★
ブログより  Navajo

 初めてお便りいたします。
 先般のがん患者大集会でお目にかかりました。宣言文苦労されていましたね。ご苦労様でした。患者会組織をまとめていくのは並大抵のことではないと思います。頭が下がります.以下、ブログにてご紹介いたしました。(注「Navajo がん患者大集会」で検索できます)
                              (http://hiromiya5.bblog.jp/category/gan)

                                ★

 「患者会の会報に思う」
 この3月に「がん患者大集会」でいただいた資料を整理していたら、俵萠子さんが代表している患者会「1・2の3で温泉に入る会」の会報が目にとまった。読み出したら、とうとう最後まで読み切ってしまった。
 読後感。
 ふーん、よく出来ているよな。こういう会報なら会員が読んでいて、気持ちよく感じるだろうなと思う。紙面構成の80%以上を会員の思いでつづっている。体験記、闘病記、エッセイ、旅行記、イラストなどさまざま。そこには、病を経験した各々が今を生きている共有感が漂う。
 「あなたに出会えてよかった」、このコ了ナーは、表題からわかるように、先だった会員さんへの追悼集です。6人の方への思いを身近な会員さんや親族が記されています。生きていれば死は隣り合わせにあるものです。死を優しく送り出すことは、生を豊かにすることに通じる。優しい心が紙面いっぱいに広がっていた。俊逸!!(後略)

                          ★ ★ ★

善行賞表彰  東京支部 : 大館敏子さん

 長年のボランティア活動の表彰として、皇太子殿下に御接見の光栄に浴しました。自分の耳を疑った。天と地が逆さになったような感激でした。
 朝、東宮御所に向い、正門のところで6人くらいの方の検査を受け、携帯電話、カメラはダメ。バックをひとつ持ち、うつそうと茂る古木の中、特別に車を許され、御所のお玄関に到着すると、侍従職の指示に従って「日月の間」に案内された。東山画伯のすぱらしい絵画、天井の高かったこと、全部木組のお部屋、都心の喧噪を忘れさせる静寂に耳を疑いつつ、皇太子殿下のお出ましをお待ち申し上げました。
 皇太子殿下が目の前にお立ちになられたときは膝ががくがくしたのを覚えています。
 私は光栄と感激で生涯忘れることのない最良の日でした。
百花繚乱
    新年度の年会費の振り込みに、通信欄のついた用紙を採用した。おかげで、多くの会員が会費に添えて、短い通信文を書いてくださる。それがうれしい、とてもうれしい。まだ支部ができていない地域の皆さんとは、私がその地域へたまたま行った時にしかお目にかかれない。
 (お元気かしらア困っていることはないかしら……)
 つねづね心にかかっている。一言でも近況を知らせていただくとホッとする。その通信文の一部を『百花繚乱』というべージでご紹介している。筆者と交流されたい方は、事務局に相談してください。 (俵萠子)
                                ★

 1年間元気で過ごす事が出来ました。これからの1年間、何事もなく、無事に元気で過ごせたらと思っています。俵さん、事務局の皆様どうぞお元気で! 会員の皆さんのためによろしくお願いします。1年聞よろしくお願いします。
                                   九州支部 Y・S
                                ★
 7号会報届きました。すぱらしい原稿です。読みごたえありました。大館敏子様の肺のCT写真“あっぱれ”です。拍手です。期限がとっくの昔に過ぎてから原稿を送りました。間抜けな、のんびり屋の波多野です。
                                   東京支部 H・K
                                ★
 お世話になっております。今年3月3日に右側4年目の検査も無事済み、また1年元気に過ごせそうです。今は忙しいのでなかなか出かけていく事が出来ませんが、仕事がおちついたら是非皆様にお目にかかりたいとおもっています。
                                   北海道  K・T
                                ★
 俵さん、事務局の皆様。大変お世話になっております。皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。会報7号を読み「あなたに出会えて……」が特に響きました。会員の皆様も同じ気持ちかと思いますが、自分自身と重ね合わせてしまいました。
 だからこそこうして皆様と出会えて良かったと思います。雪んこ支部も4月入浴会です。今から楽しみにしております。
                                   山形県  K・H
                                ★
 第2回がん患著大集合大成功でした。お元気な俵さんのお姿拝見できまして、大阪支部の皆様も大変喜んでおります。
 私たち大阪支部も次回に向け4月の食事会には全員集合のつもりです。今年の新年会榊原温泉も大変よかったといって頂きとてもうれしく思っております。本部の皆様いつもお世話ありがとうございます。ではまた。
                                   大阪府  I・S
                                ★
 中味の詰まった会報ありがとうございます。俵代表の編集の御苦労と事務局の方々の御世話感謝いたします。ますます充実した会報に発展する様願ってます。
                                   埼玉県  S・E
                                ★
 会報お便りありがとうございます。充実した内容の会報に多くの(感動、学び、元気…)を得ることができました。俵代表、事務局の皆様方にお礼申し上げます。
                                  埼玉支部 K・Y
                                ★
 介護福祉士の受験の前日に会報が届きました。読みながらボロボロ涙を流していました。私達のできる事は,彼女達の分まで悔いのないように生きる事だと思い、翌日の試験に臨みました。
                                  新潟支部 K・H
                                ★
 会報をありがとうございました。今回は亡くなった方のお知らせが多く,読んでいてこわいほどでしたが、大館さんの体験記には励まされました。第6回総会とシンポジウムに参加を希望します。
                                 千葉支部 Y・Y
                                ★
あなたに出会えてよかった
 故 長谷裕美さん

昭和39年11月9日生まれ
平成18年4月12日没
享年41歳
 長谷裕美さんとの対話

 長谷裕美さん。
 あなたは2001年に私たちの会がスタートした時、最初に九州から電話をかけてきてくれた人でした。若かった。まだ37歳でしたね。
 「鹿児島に、もっと会員を増やして、一緒に温泉に行きたいんですけれど、どうやってふやせぱいいですか?」
という電話でした。
 「じゃア、地元の新聞に“仲間を募ります”という投稿をしてくださる?」
と私は頼みまLた。
 「わかりました」
あなたはすぐ投稿してくれました。それでも人数が足りない。つぎはどうしたらいいでしょう。また電話がかかってきました。
 「じゃア,今度は,地元のラジオはどうでしょう」と私はいいました。
 「わかりました」
またすぐにあなたは、ラジオでも呼びかけてくれました。
 ――これが九州支部のはじまりになりました。
 でも、いま、あなたの原稿を読んでみると、一番最初は,私のホームベージにアクセスする苦労から始まったのですね。
あなたはそのためにまずパソコンの無料講習に行った。次に、市営の施設でバソコンを借り、私のホームベージを見つけて入会してくださった。私はそれをいま知りました。しかもその頃、あなたはすでに転移していたのですね。それも私は、いまになって知りました。
 裕美さん,あなたは、すぱらしい行動力を持った人でした。それなのに,あまり多くを語らない人でした。私はお子さまがいらっしゃることは知っていました。
が、3人とは知りませんでした。あなたはいつもにこにこしている人でした。ぐちや弱音を一切吐かない人でした。思い出します。
 九州支部設立祝いの温泉旅行をしたとき、あなたはすでに杖をついていました。
なのに鹿児島から福岡県まで来てくれました。うれしそうでした。楽しそうでした。一緒に温泉に人りました。一緒に泊りました。
 そのあなたが、死の少し前に病院から「退会する」というお電話を下さったのはなぜでしょう。私の想像です。間違ったら、ごめんなさい。長い闘病生活で、あなたはお仕事(看護師)を止めざるを得ませんでした。療養費もかかっていたでしょう。残してゆく3人の子どもの生活が心配だったでしょう。事情は知りませんが、あなたがいま、シングルであることを.私は知っていました。
 私たち役員は、すぐに相談しました。
「会を辞めないで下さい。会費はいつでもいいから、会にいてください」
 とお願いしました。あなたは、私たちのお願いをやっと聞き入れてくれました。それから間もなくあなたは旅立っていきました。
 裕美さん。
 あなたは、いやがるかも知れません。
 あなたは、含差むかも知れません。
 でも、こうする以外に、ほかにどんな方法があるのでしょうか。
 会の名で、あなたに「名誉会員」の名と「感謝状」を贈らせてください。
 3人のお子さまのために、贈らせてください。3人のお子さまに
 「あなたたちのお母さまは、こんなにすばらしい人でした。私たちは感謝しています」
 といわせてトさい。
 3人のお手さまへ。
 もし、私たちでお役に立てることがあったら、いつでも何でも相談して下さい。私たちは出来ることをやります。
 裕美さん。あなたが育てた会は、五年たって、ようやく、こういう会になりました。
 ありがとう。裕美さん。眠ってね。
                             2006年8月4日
                                       代表 俵萠子
                          ★ ★ ★
がんと闘い優しい知人逝く  福岡支部 : 月足美智子
                    (読売新聞に投稿された文章を転載しました)

 桜の花の散る夕べに、若い知人の訃報が人った。評論家俵萠子さんが代表を務める「1・2の3で温泉に入る会」(本部・群馬県)の会員仲間で、九州支部の創設者だった。まだ40代に入ったぱかりだった。
 会は、乳がんで乳房を失って温泉に人れなくなった者同士が人目を気にしないで温泉を楽しもうという趣旨だ。
 知人は私が入会した一年前は九州支部長で,翌年、福岡県下で支部会が開かれた折、初めて会った。
 がんはすでに4回も転移しており、当時は骨もむしばまれていたはずだった。それなのに、つえをつきながら、会議の進行などがうまくいくよう、会員のために心配りしていた。私は、そんな姿を見て胸が詰まった。同席していた俵代表も感激し、涙を流していたことが忘れられない。
 最後に会ったのはその翌年で、この前後、病状の悪化で入退院を繰り返していた。知人はいつも優しい表情をしていて会うと心が温まった。電話をかけると病床から「何とかやっています」
「元気になったらまた会いましょう」
と返事をし、明るく振る舞っていた。
 後で聞いたところでは、このころが末期だったそうで、苦しさに全くめげない前向きの姿勢には頭が下がった。
面影を思い出すたびに涙が出る。ご冥福を祈りたい

                          ★ ★ ★
長谷裕美の思いと想い出 旧九州支部会員 長谷裕美の父 中路幾也

 この度は娘、長谷裕美の逝去にあたり御心篭もったご高配賜り有り難うございました。
 還らぬ人となった娘裕美は、苦しみ藻掻くこともなく痛みも訴えず心安らかに永遠の眠りに就いたのでしたが、呆気ない別れの形を見せてくれました。
 闘病中も病に落ち込む態度も見せず、常に明るさを失わず気丈夫に振る舞って居た彼女が、残された家族に辛い思いをさせるまいと気遣った最後の思い遣りを残しての旅立ちであったと慨嘆にくれる私どもでした。
 いつも前向きな姿勢で目標を持って進む積極的な行動力は,今もって彼女の交遊した仲間たちの語り種になっております。
 また、残された子供3人の生き方の目処となり鑑みとなすところであります。
 長くはなかった彼女の人生の思い出は私ども親にとってはずつしりと重く感じられ侮やまれることも多く、ああすれぱ良かったのにこうしてやれぱ良かったのにと後悔が募るぱかりで胸に空いた空虚の穴が広がるぱかりでした。
 このほど、彼女が遺して逝った身の回り品を整理していましたら、彼女の闘病日記が見つかり読ませて貰いましたが、胸中に秘めた彼女の思いの徒然が滲み出ていて、忸怩たる涙にくれるのでした。
             ----------------------------------------------
 ここに同封しましたのは、お世話になった病院内の機関紙に掲載された彼女の投稿文の一端で、今年のお雛祭りの時に記念として発刊されたものです。
会員諸氏にも何か感ずることがあればと思って同封しました。大の温泉好きの彼女は初期の頃、同会の開催を楽しみにして居た当時の笑顔が今も瞼の裏に焼き付いて離れません。彼女の遺稿となった闘病の記も編集して機会があれば公開したいと思っております。
 最後に御会のご発展を祈り、皆々様のご健康を祈りますと共に彼女の冥福を析り拙い筆をおきます。
                                                         忽々

                          ★ ★ ★
お母さんの笑顔  長谷裕美さんの娘さん 中州小5年 長谷郁美

 病気というものは悲しいものだと思います。病気にかかった人はもちろん、その周りにいる人も悲しくさせてしまいます。みなさんは病気について真剣に考えた事がありますか。
 私のお母さんは今、がんという病気と戦っています。私が小学生に人る頃乳癌の手術をしました。しぱらくは体調も良かったみたいでした。でも、近頃はがんの影響で言葉もかすれた声になってしまいました。そんなお母さんを見ていると、わけもなく涙が出そうになります。
 大好きだったママさんバレーもやめてしまいました。また、看護婦という仕事も出来なくなりました。優しかったお母さんがちょっとイライラすることが多くなりました.きっと病気のせいだと思います。
 それでもお母さんは落ちこまずに前向きの気持ちで生きていき、自分が出来る事を多くの人達の為にやろうと心がけて今生きているようです。そして、今はチラシ配りなどの仕事を引き受けてやっています。
それでも暑い中、チラシ配りを何時間もした後で
 「今から点滴を打ってくるね」
と言って、出て行きます。その足音はズシ、ズシと重い感じがします。
だから、私は勇気をだして、
 「どうしてそんなに辛そうなのに笑っていられるの。病気はショックではないの」
とずっと思っていた疑問を投げかけました。
すると、お母さんが
 「辛くなる時もあるけど、お母さんがたくさん頑張っているとみんなも安心するでしょう。また、みんなの笑顔が見られると楽しいからね」
と、すぐに答えてくれました。
 私のお母さんは、友達のお母さんのように、さっさと家事をする事は出来ません。でも、私はお母さんが大好きです。上手く出来ないけど、頑張っているお母さんが大好きです。いっぱいいっぱい笑っているお母さんが大好きです。
 私は、お母さんが少しでも楽にしていられるように、怒らせないようにしたいのですが、どうしても困らせてしまうことがあります。例えば、片付けが出来ない時です。その時、お母さんは出ない声で一生懸命怒ります。お母さんは怒るといつも辛そうにします。
だから、お母さんが笑えば、その場の空気が暖かくなります、まるで、魔法がかかったみたいに。
この魔法が永遠に続く様に、お母さんの笑顔が1秒でも長く続いて途切れないように、私もいっぱいお母さんに笑顔を返したいと思います。


長谷裕美さんの手記
数回の転移を経て、さらに前向ききに

 私は鹿児島に住む、37歳の主婦です。
 平成5年より、右乳房にあずき大のしこりができ、調べてもらいましたが、良性とのことで安心していました。年1回の定期検診を受けながら2年が過ぎ、しこりが直径5センチくらいになってきたのが、平成7年の5月のこと。
 結局、外科手術が必要と言われ、6月には手術を受けました。
 その後はまた年に1回の受診を続けながら、経過を観察していただいておりましたが、平成9年に自宅でケイレンを起こし,緊急人院をしました。
 脳腫瘍が発覚.乳がんとは関係がなとのことでした。同年の6月に、手術。
 予防のため放射線治療を受け、9月の初めに退院。
退院後は年1回のMRI検査を続けて様了を観察していましたが、平成12年4月、腰痛にて受診したところ、第四、五頚椎に乳がんの転移と思われる腫瘍あり。抗がん剤の治療を受けました。
 しかし翌5月には民間のホスピス施設に相談をして、抗がん剤治療を中止、放射線治療を受けました。この施設の院長は「抗がん剤は抵抗力を落とします。ここでは自然治癒力を高めることを主としています」という方針。この考え方が気に入り、現在も通院しています。
 平成13年4月には、胸椎にも転移があり、再度放射線治療を受けました。
 今は、前向きに生きていくことが、何よりも体のためにいいことだと気づくことができました。心からそう思い、いろんなことにチャレンジしていこうと思っています。昨年12月からは、民生委員をさせていただいております。
 私のような若ゾウができることかどうか、不安もありますが、いろいろ勉強になり、多くの人とも出会え、楽しくやりがいのある仕事です。
 また、早くパソコンを買って、インターネットを通じて、もっともっと多くの人と知り合いたいと思っています。
 「1・2の3の会」のことは西日本新聞の記事で知りました。ひそかに私が考えていたことが、その記事に書いてありました。それはどうしても「ゆっくりと心ゆくまで温泉に入りたい」
ということ。
 鹿児島は温泉が多く、病気になる前までは、よく家族と出かけていました。
しかし、術後-年間は温泉に入る勇気はなく、家族が温泉に出かけても、1人で留守番。見られるのが恥ずかしいというより、もし他の人が私の手術の痕を見たら、すごく驚くのではないかという気持ちが強く働いていました。
それでも時がたち、いまではたまにですが温泉に行き、温泉に入りたいという気持ちが私を温泉へと連れていきます。とはいっても、ゆっくり、のんびりと入ることはできず、胸を隠しながらの人浴です。
 「そう、みんなで入ればこわくない」
 みんなで人れば、ゆっくり、心ゆくまでお湯につかれるぞ!」 俵さんの記事を見たとたん、この会に参加したいと思いました。しかし我が家にはパソコンがないのです。どうやってアクセスすればいいのか、考えたあげく、インターネットの無料講習会を見つけ、基本を習い、さっそく市営の施設でパソコンを借り、検索。ホームベージはすぐに見つかりました。早く一緒に温泉に行かせていただきたいと思っています。携帯メールも始めました。メールも送ってみたいと思います。

                                ★
平成16年7月26日「鹿児島大学医学部看護学科の学生に講義」

 私は、平成7年に乳がんの手術をしてから、5年目に骨転移があり、堂園メディカルハウスに通うようになって今年で5年目です。今、主な治療は月2回の抗がん剤と骨転移の増加をおさえる点滴を月1回行っています。抗がん剤は副作用の出ないように少ない量で使用しますので、吐き気がしたり髪が抜けたりする事はありません。ホスピスでは積極的治療はしないと思われているようですが、私の場合は抗がん剤の副作用で苦しんで体の抵抗力まで落としてしまわないように先生が配慮してくださいました。
 堂園メディカルハウスの薬袋のうらに書いてある言葉ですが、「あなたの体の社長はあなた自身です」とあります。
病気は医者まかせにせず、自分でも勉強する必要があると思います。自分の症状と検査結果を主治医に詳しく聞いて、主治医や看護婦さん達とコミュニケーションをよくとり、自分の納得する治療や看護を受けることが大事だと思います。

 私は昔、看護婦をしていました。初めての職場は、心臓血管外科・小児循環器・放射線科の混合病棟でした。心臓血管外科の患者と放射線科の患者では、看護方針がまったく違います。心臓血管外科の急変はバタバタとしていて私はいつもオロオロして、ドクターや先輩看護婦によく怒られました。どちらかというと放射線科のターミナルの患者さんのお世話をさせてもらう方が、性に合っていると思っていました。
そして、ホスピスの看護婦になろうという思いを持ち始めました。しかし、当時はあまりホスピスも多くなかったので、情報もなく、どんなものがホスピスなのかよくわかりませんでした。
自分なりに、患者のそばで話を聞いてあげたり、体をさすってあげたりしていました。そして、何より患者の気持ちをわかってあげる事が大事だと思っていました。ところが、今、自分が逆の立場になって、大きな勘違いに気づきました。「患者の気持ちをわかってあげる」というのは、私のうぬぼれでした。病気になった人の気持ちは患者にならないとわかりません。落ち込んで絶望感を持つ患者に「がんばれ」と励ましました。でも患者さんの中では一生懸命なんです。がんばって乗り越えようとしているのです。それ以上がんばれないのです。
 また、告知を受け入れて、毎回にこやかに過ごす患者もいました。そんな人は、もう何の迷いもなく、ずっと前向きに生きていける人だろうと思ってました。私も、今、前向きにとりくむようにがんばっていますが、時々、どうしようもない不安と悲しさ、悔しさに襲われる事があるのです。患者の表向きだけを見ていた私は、きっと当時の患者さんも今の私と同じように時々苦しかったにちがいないと思いました。

 ホスピスの看護は奥深いものです。
患者の社会的背景まで含めて、看護する必要があります、家族に病人が出ると誰でも心配です。早く良くなってほしいと思うのは当たり前です。私には3人の子供がいますが、子供が病気で苦しんでいると辛いです。できれば代わってやりたいと思います。もちろん、一番辛いのは、本人ですが、同様にそれを見ている方も辛いものです。その為、病人に「何か食べたいものは?」「苦しい所はどこ?」「さすってあげようか?」とか、苦しみが和らぐのなら何でもしてあげたいと思うものです。

 以前、電車の中で女性2人の会話を聞きました。
「○○さんのご主人、がんで入院しているんだけど,真夏に柿が食べたいって言ったらしくて、奥さんすごく困ってたわ。がんの人ってわがままなのね」
この人の家族はきっとみんな健康なんでしょう。

 ホスピスは患者と家族の痛みと不安を和らげてくれるところです。
他人に私の病気を話した時、「あなたは強いね。そんな病気をしているのにいつも笑っているから」と言われました。その時なぜか涙が出ました。
強いんじゃないんです。弱いから笑っていないと気持ちが負けてしまうからです。強がっているというのかもしれません。泣きたい時に泣ける。笑いたいときに笑う。そんな自然な生き方をしていきたいと思います。
 なってしまったものは、仕方ありません。前向きに。自然に。自分らしく生きていくためにはどうすれぱいいか、常に考えながら、私は生きていきます。
                          ★★★★★
故 西澤恭子さん
昭和14年12月5日生
平成18年2月11日没
享年66歳

母らしく見送って 千葉支部  西澤恭子娘一同

 お知らせが遅くなってしまいすみませんでした。私たち家族にとっては「哀しい」だけの出来事ではありませんでした。
 これまでの母の歩み、そして、優しくおだやかだった旅立ちの仕方に、似合う、お知らせの仕方を、探していたため、ご連絡がおくれてしまいました。
 お送りします力ードから、そんな想いを受けとって頂けたら光栄です。
 「娘の記憶に残る母は、常に人の輪の中心にいて、細部まで気配りができる姿でした。地域の子供会やPTA活動なド「ボランティアに熱心に取り組み、人の為に働くということが自然にできる人でした。4人の娘を育てあげ、夫の両親を最後まで看取り、これからは自分の趣味を・・・ といった矢先の発病でした。」
 後で知ったことですが、1年前の時点で脳転移が見つかった時の平均余命は6ヵ月だったそうです。母はその倍の日数を生きましたし、何よりも、その1日1日を明るく、ほがらかに過ごしてこれたことが、私達、家族にとっては、大切なことです。
 確かに哀しみはあります。
 でも、それよりも、こうして、大切な時間を充実して送ってこれたこと、母がそれを、提供してくれたことに、喜びすら感じていますことお伝えしたく思います。
 2006年2月11日午後2時10分、母、西澤恭子が永眠しました。

 2005年2月に脳への転移が見つかり、余命が短いことを告げられてからも、一度として後ろ向きな姿を見せることなく、四季を楽しみ、ほがらかに毎日を過ごしてきました。
 夏は、蓼科高原で長期間静養し、しゃれたカフェでお茶を楽しみ,秋には夫婦で黒部の立山に旅行し,夕□に彩られた雲海に感激し、つい先日の1月29日は、元同僚の結婚式に車椅子で出席し、仲間たちとの久々の再会に大喜びでした。
 日常の生活で介助が必要になってからも、従来のほがらかさで、ヘルパーさんや往診の先生を和ませ、談笑を楽しむ日々を送ってきました。冒険好きで何事にも才ープンだった母は、さまざまな方法を楽しんで試し、その甲斐もあって、痛みをほとんど感じることなく,前目までいつもと変わらぬ日常を過ごしました。
 そして2月11日、娘4人の到着を待って、家族全員が見守る中を自宅で、とても穏やかに、息をひきとりました。
 皆さまの温かいサポートがあったからこそ、このように充実した日々を送ることができました。改めて深く感謝しています。
ありがとうございました。
                                          娘一同
                          ★ ★ ★
Thank You、恭子さん  千葉支部 : 黒坂芳枝

 船橋で食事をした時は、再発されてはいたがお元気なお顔で、私が「背中が痛い」と言うと「大丈夫よ、私、なんだか元気でこのままずっと生きていけそうな気がするの」それが恭子さんの口ぐせだった。私はその言葉からいつも勇気をもらっていました。
 ある時、頭に転移しているのでご主人がいらっしゃる時にしか散歩に行けないと言っていたので、元気が出るようにひまわりの花を送りました。すると恭子さんも娘さんもとてもうれしかったと言って下さって、そのうえ子供や孫達のためにおいしい梨を送って来て下さった。「おいしくて3日で食べちゃった」と言ったら、笑ってくれた。
 それから何回か電話で話したが、恭子さんの声はだんだん細くなっていた。
でも私は年末から入院したので、そのままになってしまった。そんなことを思い出して、やはりどうしても弔問させて下さいと御主人様にお願いして、その日の午後にうかがった。
 西澤さん遅くなってごめんなさい。
 五香駅の近くの喫茶店でお茶を飲み、話したいねと.言っていたことを実現できず、すみません、と言って焼香するとピンクのガウンを着て、帽子をかぶった遺影の恭子さんが、笑ってくれたような気がした。また涙が出てきた。
 あなたに出合えて本当にありがとう。
 多くの花の中には、恭子さんのスナップ写真が何枚も飾られていた。
 特に手鏡を持って真剣な表情で化粧している顔は女性らしく、旅行の写真、お友達との写真、それから弁天様(?)の頭に自分の帽子をかぶせている丸坊主の恭子さんは、本当にキュートでかわいかった。ご主人様も娘さんも私も思わず笑ってしまいました。
最後の写真は右前にあった死に化粧した顔。2輪のピンクの花、白の旅立ちの写真。顔は穏やかできれいで、今にも動きそうでした。
 写真を通して恭子さんが病気を受け入れ、それでも明るく楽しく過ごされた日々が私の胸に大きく響いてきました。“生きるって素敵です”
 ご主人様が電話で話してくれたように、4人の娘さんが体をさすりながら、恭子さんも穏やかに旅立ったそうです。悲しいことですが、何か満たされていたそうです。
 弔問させていただいていろいろなことを考えました。人と出合うことの大切さを教えてくれた恭子さんを、私は忘れることはないでしょう。
 玄関を出る時、娘さんがそっと私にコートを着せて下さり「体をひやさないよう、元気になって下さい」と言って頂き、まるで外に出てもコートの中に西澤家の人達の温かさが残っているようでした。

                          ★★★★★
故 中村和美さん
昭和12年6月30日生
平成18年5月11日没
享年68歳


中村和美さんへ  神奈川支部 : 澤内洋子

 昨年12月に支部の忘年会に参加された折には、とてもお元気でしたのに、1月にはリンパ管への転移が分かり、抗がん治療の闘いが始まりました。苦しい治療を頑張って頑張って闘いましたが、力つきて5月11日に永眠されました。
 私は12、13日とお通夜、告別式に数名の会の仲間と参列させていただきました。ご家族の「やっと楽になれました」とのお言葉が印象的でした。「和美さんお疲れ様でした」との思いと「でも早過ぎる」との無念で涙しました。
 ご子息からは「母は1・2の3の会に入会して皆様方に出会えたこと、また病床へ仲間からの励ましのメッセージカードなども、本当に喜んでいました。感謝しております。会の皆様に宜しくお伝えドさい」とのお言葉をいただきました。
 和美さんはお一人住いでしたので(息子さんは海外在住)連絡がとれなくなってから妹さんと連絡し、病状をうかがっておりました。面会のお許しを得て会いましたが、とても喜んでくれ、その折1,2の3の会の会報7号「再発・転移をどう生きるか」を何度も読み返したこと、また東京の大館さんの存在にとっても勇気づけられたと話されました。
 私も必ず回復すると信じていましたのに本当に悲しくて残念です。
 中村さんとのたくさんの思い出。2004年江戸博物館・第4回総会、2005年横浜・第5回総会の懇親会で披露するマツケンサンバの振り付けの練習、2005年秋全国温泉大会の翌日の一日周辺観光。支部の温泉旅行もいつも一緒でした。出会って3年余りでしたが、たくさん会話もしました。
 本当に出会えて良かったと思います。
 和美さん。4年前に先立たれたご主人のもとで安らかにお眠り下さい。
 心よりご冥福をお祈り致します。

初のがん患者アンケートを実施
がん患者ネットのメール担当になって  東京支部 菅居禮子

 がん患者ネットは、個々のがん患者会がネットワーク(Eメール〕で横の連携を持ちながら、共に患者のための、がん医療の向上をめざして活動している会です。1・2の3の会も、この活動に参加しています。
 2月、初めてネットの会議に出席。専門医の育成、未承認薬の問題、情報センターやがん登録など多くの議題が出ました。
 4月25日、自民党のがん議連の発足会に、がん患者ネットの43名が立合いました。メール担当者及ぴ東京支部からは5名が出席。
 熱気あふれる会議で、「がん対策基本法」成立に向けての陳情や、緩和ケァ、がん難民やがんの地域間格差をなくして欲しい等の、活発な意見交換をしました。
 後日、民主党や他の政党にも陳情に行っています。
 こうしてがん患者ネットやさまざまながん患者会が協力して行動したことが、6月16の「がん対策基本法」の成立につながったのだと思っています。患者の命をかけた声が、大きなうねりなったことを実感しました。
 これからも、患者の視点に立った医療の実現のために、私たち患者も声をあげていかなくてはいけません。
 今年の総会のとき、メール担当が実施したアンケートには、90名以上の方が回答を寄せてくださいました。
 回答の中からは、「がん」という病気に対する専門性の高い医療を望む声がくつきり浮かび上がってきました。
 今後、私たちの患者会が目指す方向性への指針にしたいと思います。
アンケートの結果 (意見)
 <於:1・2の3で温泉に入る会第6回総会(2006年6月11日)> (回収数94)

性別 ・会員、非会員

世代

がんの部位

女     90名
男     2名
不記入   1名

(会員  77名)
(非会員 16名)

40代    8名
50代   25名
60代   24名
70代   12名
不記入  24名

乳癌   60名
肺癌    3名
子宮癌   2名
盲腸癌  1名
膵臓癌  1名


 

よく知っている

聞いたことがある