陶芸暮らし森の中のイベント  魯山人の気持をほんの少し……
 サラリーマン風にいうなら、“定年後の趣味”。自営業の私にとっては、“子育て後のセカンドライフ”。
そう思って計画した「森の暮らし」だった。50歳で、セカンドライフの準備に着手した。
まず、群馬前橋の不動産屋を探した。その人に、当方の条件を伝える。
 〈当方は、まだ現役であるから、東京から二時間以内で行ける場所であること。町からは遠からず、近からず。熊の出るところはお断わり。当方は、女のひとり暮らし。土地は山林でもよいが、三反(900坪、3,000平方メートル)は欲しい。なぜなら、その頃、私は有機農業がしたかった。できれば、函館の百万ドルの夜景のような眺めであってもらいたい)
 いいたい放題のことをいい、三年かかって見つけたのが、いま、わが陶芸王国のある赤城山の森の中である。
 百万ドルの夜景は叶わなかったが、かわりに敷地内にホタルの舞う一級河川が流れている。土地が見つかった頃、私は53歳だった。
 あれから、早いなア。20年の歳月が流れた。この間私は、運転免許をとり、農業ではなく陶芸をやり、俵クニ子、俵さくらという伴侶(といっても犬だが)も見つかり、工房が出来、陶芸教室が出来、何度も個展をやり、敷地は2,500坪にふえ、美術館まで作り、村おこしをやり、群馬おこしを手伝い、群馬に大勢の友人、知人が出来たのだった。もちろん、その間、癌も病んだし、交通事故もやった。骨折もしたし、不動産屋にも騙された。いいことばかりでないのは当り前だが、でも、でも、それでも、とっても幸せな20年だったのではないか。
 振返って、私のセカンドライフは、大成功だったといえるのではないか。
 その上まだ、私は、こうして元気に、原稿を書いている。ことしの六月には、ヨーロッパ窯元旅行に出かける。あとまだ、何年生きるんだろう。
  ……人生は、つくづく長くなったなア……

 さてこの連載、最終回のきょう、私は俵繭子美術館の中に、ついに誕生した「喫茶室・萠」のことを書こうと思う。
 北大路魯山人があこがれの人でありながら、長い間じつに長い間、私は食べ物を売る仕事をためらってきた。それはたぶん、私自身が異状なまでに食いしんぼうであるからだろう。食べ物屋さんは、仇や、おろそかな気持でやっていけないと思っていたし、やれるものでもない…と思ってきた。
そう思いながら、しかし一方では、この山の中へ来てくれる人を、真にもてなすには、食べ物が絶対必要なんだということも感じていた。
 さらに一方で、器というものは、使ってこそ価値の出るものであり、飾っておいて買っていただくものではないという信条は頑固に変わらない。
 そのはざまで苦しみ、揺れながら、
 〈でも、私の体は一つなのだ。本や原稿を書き、器を作り、その上、自分で満足のいく料理を作り、接待まですることは断じて不可能なのだ。諦めなさい。何かを諦めなさい〉
 自分にいいきかせてきた。
 その気持に揺らぎが出てきたのが、昨年(2,003年)の10月だ。俵萌子美術館まつりで、上州鍋を頬ばり、ホットコーヒーを飲む人々の表情を観察していた時だ。あの、充たされた、幸福そうな顔は、どんなにいい出来(だと私が思う)の器を見たり、触わったり、買ったりする時でも、人々が見せない表情だった。
 私の気持は少しずつ、
 (やってみようかな……)
  に傾いていった。
 “人”の問題もある。原稿と絵を書くこと以外、すべてスタッフの協力なしに出来る仕事はない。たまたま昨年から、信頼できるスタッフがちょうど10人集まっていた。男性五人、女性五人。チームワークもいい。
有能でもある。みんなに“やる気”と、“ハート”がそなわっている。
 (やるなら、いまだ!)
 神の声が、私にささやいた。

 今年(2,004年)の1月と2月。思い切って、私は美術館を休館にした。
 改装をし、大幅に展示替えをするためだ。
 その時並行して、ビデオルームに手を入れた。ビデオルームは、美術館の北東の角部屋だ。広さにして15畳くらいだろうか。その昔、私が窯部屋にしようと思って作った部屋だ。工房が移転し、美術館になって以来、ずっとビデオルームになっていた。
 東は、何万坪という保安林とホタルの飛ぶ小川。北には赤城連峰の一つである鍋割山と、わが家自慢
の雑木林がある.二方向が窓だから、そのすべてが見渡せる。
 「こんな場所で、おいしいコーヒーが飲みたいなア。」
よくお客さまがそうおっしゃる部屋だ。その部屋を“喫茶室”にする。
 問題はキッチンだ。正式に飲食店を営業するとなると、保健所の許可がなくてはならない。ラッキーなことに、陶芸教室のOB生徒の中に、定年まで保健所に勤めた人がいる。Kさんという。Kさんに、細かいことをいろいろ教えて貰った。
 @床も、天井も清潔でなくてはならない。
  (で、コンクリート張りの床に、おしゃれなビニールクロスを張った。これが高くついた)
 A調理人が手を洗う専用のシンクが必要。
  (大きなシンクを区切って、独立シンクを入れた)
 B調理人の着替え室がいる。
  (いままでは、物置として使っていた部屋の荷物を放り出し、着替え室にした)
 C客室と調理室の問には、ドアを設ける。
  (たまたま、そうなっていた)
 D扉のついた食器棚が必要。
  (前からあったが、在庫品人れになっていた。在庫品を別の場所に移した)
 保健所の許可をもらうために、いちばん高くついたのは、いままで物置同然になっていた美術館のキッチンを、本来のキッチンに戻すため、あらたに別の物置を作ったことであった。保健所から要求される「食品衛生責任者」の資格は、二人もいる調理師免許保持者のスタッフのうちの一人が講習を受けてとってくれた。

 私が魯山人の爪の垢を煎じるとすれば、せめて“喫茶室・萌”で使う食器くらい、全部自分で作らなくてはならない。
 手はじめに、コーヒーカップからはじめた。土は、信楽の赤二号。デザインは、白化粧の幕がけ。
化粧部分を掻落しで装飾。いまのところ、たった一つの食事メニューである「五目チャーハンセット」は、すべての食器が古信楽の細目と信楽赤二号のブレンド。それに白化粧をぼかしがけ。皿の縁をラフに仕上げた。
 喫茶室オープンの日、私は息を飲む思いでお客さまを待った。
 大きなテーブルの真ん中に、私の作ったコーヒーカツプ(デザインは八種類)を並べておく。
 「どれでも、お好きなカップをお選びください。そのカップでコーヒーが召し上がれます。お菓子はサービス。一杯400円です」と書いた紙をかたわらに立てる。
 
手作りカップの模様パターンもこのほか多種作り、お客さまに選んでもらいコーヒーをお飲みいただく


チャーハンの付け合せは、俵萌子手作りの山椒の佃煮をチャーハンにまぶしていただくと最高との評判
 お客さまの動きを見ていると、皆さん、お選びになる。八種類のすべてを手にとって、じっくり、ゆつくりご覧になる。やがて、“コレ”とおっしゃる時がくる。私の注意が集中する。
  (どの柄を選ぶだろうか?)
 いままでのところ、わが美術館のお客さまは、花(山ぼうし文)と草(雑草文)がお好きらしい。現代的な幾何学模様はめったに選んでいただけない。
 うれしかったのは、飲んだカップを抱え込んで、「これ、売っていただけませんか?」といって下さるお客さまだ。
 「わかりました、同じデザインの新しいカップを持ってまいります。」
とスタッフが答えても、だめだ。
 「私は、これが、いいんです」
と、抱えたまま離さない。そんな時は、そのカップを洗って、お持ち帰りいただく。カップはワンセット3,500円。
 こんな時、私は、幸福なんだなア……。
焼きものをやってよかった。しみじみそう思う。焼きものって、こんな幸福のためにやるもんじゃないかしら……。この喜びは、何十年も前に書いた私の本の初版本を美術館に持ってこられたお客さまが、
 「サインして下さい。もうすっかり、ボロボロなんだけれど……」
といって、変色した表紙の本を出された時。あの時の私の気持に似ている。
  (ありがとう。ありがとう!)
 不覚にも、涙がこぼれそうになる。嘘じゃない。ほんとに泣いてしまったことがあった。
 そんなお客さまに応えるべく、私は一品だけ自分の手作りの料理を添えることにした。手はじめは、ちょうど季節なので、庭のサンショウの若葉を摘んで、佃煮を作った。三日間、サンショウの木のトゲに泣きながら、ザルに六杯のサンショウを摘んだ。
 佃煮にしたら、小さな瓶の五本におさまった。
それを手製の小鉢に少しずつのせて食べていただく。
サンショウのあとは、八重桜の花の塩づけを作ろうと思う。あれも香りがよくて、おいしいの。陶芸の森には、一年中食べられるくらいの山菜がある。