人生 遊 あり 趣味の達人が行く
産経新聞
道楽学
迷作“トリハダ焼き”
 “子育て支援”なんていう言藁がなかった時代だ。2人の子を育てながら、キヤリアウーマン街道を突っ走っていた。
いまよりずっと大変な時代だった。趣味も、遊びも、あったものではない。一日が終わると、ボロぞうきんのように、ひたすらくたぴれて眠った。

 しかし、人生は動く。40代後半になる。時折エアポケットのような時間が出現しはじめる。エアポケットは暗くて、さぴしい穴だ、不安と焦燥感に満ちている。英語でいえば「エンプティ・ネスト・シンドローム」の始まりだ。

 園芸、カラオケ、ギター、着物……もがいて、いろいろやってみたが、さっぱりエアポケットは埋まらない。ふと、ライフスタイルを変えてみたらどうか、と思った。

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 父の郷里である群馬県赤城山に、広々とした土地を買った。最初は有機農業をやるつもりだった。でも、田舎暮らしには、どうしても車が必要だ。55歳の大決心で、まずは車の免許をとることから始めた。免許が敢れたお祝いに、東京の友人が焼きもので有名な栃木県益子の粘土3`と「陶芸初心者用の道具セット」をくれた。私の子ども時代は、戦争中だった。「やきもの」なんか、やらせてはくれなかった。

 55歳で初めて触った粘土の感触の魅惑的だったこと! むちむち、もちもち。
ほんの少しひんやりしている。弾力がある。まるで、女性のオッパイみたい。エロティックで気持ちがいい。陶芸の言葉では「可塑性」というが、一塊りの土から、無限の形が作れる。そのことも、魅力だった。

 すっかり、とりこになってしまっった。
 はじめのうちは、デパートの陶芸コーナーで各地の粘土を買い、焼くのも、デパートの同じコーナーで焼いてもらっていた。しかし、すぐ、それではあきたり一なくなった。
一番小さい電気窯(当時18万円)を買い、東京の家のサンルームに置いた。抹茶碗が2個入るくらいの大きさだ。
 とはいっても、自分の家で焼くとなると、一通りの釉薬も必要だ。粘土専用の流しも必要。窯道具も、焼成室も要る。そのうち、もう少し容量の大きい窯が欲しくなる。
すると、家庭用の電力ではダメで、別途動力線を引かなくてはならない。

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 このすべてを、本を読み、業者に聞き、当時、私は独学でやっていた。
 あのころ、いかに熱狂していたかがわかっていただけることだろう。
  (そんなに苦労しなくても、どこかの陶芸教室に行けばいいだろう。そうすれば設備を使わせてもらえるし、手を取って教えてもらえる)
 というご意見があるだろう。私も、そう思った。が、人生には、本業が忙し過ぎるという時期がある。50代半ぱの私は、ほとんど毎日テレビに出ていた。とても、陶芸教室に通う時間はなかった。それでも、焼きものがやりたかった。焼きものには、そのくらいめ魔力があったのだ。

 そのころ、私の焼きものに、子どもたちが名前をつけてくれた。
 「きゃッ、気持ち、悪い! トリハダが立つ。やっぱり、これは、“トリハダ焼き”だわ」
 しばらくの間、私の焼きものは、“トリハダ焼き”の名前で通っていた。
 
熊本の窯元で修行4年

 陶芸のあらゆる入門書を買い漁った。
 本を片手に、“トリハダ焼き”をつづけていたころだ。1987年4月、「神の助けか?」と思うことが起きた。NHKの教育テレビで「陶芸入門」という番組がはじまったのだ。
 週1回。講師は陶芸家の井高洋成氏。半年間の25回を洩れなくビデオにとった。ビデオがあれば、いつでも好きなときに、好きなだけ繰り返して見ることが出来る。陶芸教室やカルチャーセンターに行く閑のない私にとって、こんな “ありがたい先生” はいない。

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 子どもたちが自室に引き揚げ、すべての仕事が終わったあと、テレビのある座敷に、2畳分の新聞紙を敷く。座机の上にも新聞紙。その上に、粘土と手ろくろとカンナやヘラなどの道具類、水桶、ぞうきんなど。陶芸は、とにかく汚れる趣味なのだ。座敷でやるにはそのくらいの防護がいる。

 しかしそれさえ、電動ろくろをはじめるまでの話だ。ろくろをやるには、小さくとも土間の専用部屋がいる。私はついに、専用流しのついた、3畳のろくろ部屋兼かま部屋を庭に作った。
 もう、後には引けない。
 誰か、プロの先生について、本格的に陶芸を学ぴたかった。幸い、本職が日本中を歩ける仕事だった。講演、取材、テレビ出演で、日本のすみずみまで歩く。行く先々で、窯元を訪ねた。ゆうに100入の陶芸家をお訪ねしただろう。独学で、突き当たっている私の壁、わからないことについておたずねする。タダで教えていただくわけにはいかないから、必ずその方の作品を買わせていただいた。

 それでもやはり、特定の先生について、じっくり教えてもらいたかった。だれか、私を弟子にしてくれる入は居ないか?

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 やっと見つけたのが、熊本県八代市、高田焼の窯元・酒井雅女先生だった。いまは健康を害して引退していらっしやる。
当時はまだ65歳。バリバリ仕事をしていらした時期だ。講演の帰りに窯場見学をさせてもらった。

 中年女を弟子にしてくれる陶芸家がいないこと.を、私は嘆いた。その時の話は拙著『六十代の幸福』(海竜社刊)に詳しいが、私の話に耳を傾けていた雅女先生が、突然口を開いた。
 「オナゴ、オナゴトイイナサルバッテン。男ジャッテモ、年トレバ、力(ちから)ンノーナッテ、オナゴミタカ(みたいな)モノデッショウガ。
 ソジャケンアンタサエヨカレバウチニキンシャレバヨカタイ」

 この一言で、私はそれから4年。飛行機で熊本へ通うことになる。先生の窯は多忙で弟子を取らない窯場だった。私は工房の片隅で邪魔にならぬよう小さくなって座らせてもらった。仕事は、ほとんど窯場の職人さんに教えてもらった。時々先生のご意見を仰いだ。
 先生は「陶芸は盗んで覚えるものだ」とおっしゃった。
 ーカ月に1週間、仕事を入れない日を作る。八代グランドホテルのシングルルームに泊まる。お金はかかったが、楽しい4年間だった。
このとき私は、「一つの窯の経営」というものを学んだのだった。
 
夢工房に仲間の輪

 陶芸にハマればハマるほど、大きな窯が欲しくなる。男性なら、薪の窯だろう。女の私でも一時期真剣に、穴窯を考えた。農業をやるつもりだった。赤城の森は、2500坪もある。赤松も生えている。穴窯を作るスペースは、たっぷりだ。
 (でも、誰が、薪を割るんだ?。 三日三晩、だれと組んで窯をたくんだ?)
 そう考えると、“六十女”の私の気持ちは、次第にすくんでいくのだった。
 (まア、いいか。何かを諦めないと、焼きものは出来ない。要は、本職と両立できる形を考えることだ)
というわけで電気とガスの窯を入れた。電気、ガスの並用窯も入れた。
電気の窯には、すべてコンピュータの自動焼成装置をつけた。作陶20年の今、「萌子窯」は大小合わせて(東京の1台分を入れると)6台もある。

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 窯を入れるには、当然工房が要る。
 さいわい土地はたっぷりある。はじめから一人でろくろを回すのは、さびしいと思っていた。
 「母親定年」や「職場定年」になった仲間たちとわいわい楽しくやりたい。そのためには広々とした工房を作っておこう。趣味で結ばれた老後の友だちと “窯家族” のような関係になりたい。
そんな理想を持っていたので、100坪近い工房兼陶芸教室を作った。もちろん冷暖房、給湯、すべてを完備したぜいたくな空間だ。その工房を 「夢工房」 と名づけた。

 夢工房の陶芸教室が誕生して、ことしで16年目になる。「1期生」と呼んでいる初期の生徒の中には、すっかり陶芸がうまくなって、「萠子窯」の窯作品(デザインは私)を手伝ってくれる人もいる。

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 「萠子窯」が出来たおかげで、私はさまざまの作品が作れるようになった。熊本の先生のおすすめもあり、東京の三越や高島屋、地元のスズランデパートなど、つぎつぎに個展をするようになっねた。いちばん新しい個展は、昨年(2005年)10月、高崎、スズランデパートでの個展だ。
 こうなってくると、何事にも倦きやすい性格の私なのに、焼き物だけは倦きているひまがない。どんどん深間に入り込んでいく感じだ。
焼き物をはじめたころ、友人が私に言った。
 「焼き物は究極の趣味だというだろう。奥が深いんだって。一度はまると抜け出せなくなる。だから“窯グレ女”という言葉がある」
そうか。私は“窯グレ女”なのか。
子どもの非行を“グレる”という。私は老女なのに、グレているのか。“老年非行”なのか。まア、いい。何だっていい。楽しければいいのだ。苦しむのは、本職の作家業だけで十分だ。

 NHKのBS放送で「スウェーデン焼きもの紀行」という番組の取材をしたことがある。スウエーデンの有名窯元を訪ねた。なかでスヴェンさんという陶芸家の工房は、まるで薬局だった。
 あらゆる薬剤が引き出しに入っている。紬薬の順列組み合わせを極めるのには、寿命が足りないと彼はいった。たしかに、焼きものは、奥が深い。
だから、倦きずにいられるのだろう。だから、迷って出られなくなるのだろう。
 
“女魯山人”を夢見て

 本とテレビで独学をしていたころ、旅先の陶芸家にアレコレ教えていただいた。そのたび、感謝の意昧でその人の作品を買っていた。気がつくと、いつしかそれは結構な量になっていた。中には、お訪ねしたあと、人間国宝になられた方もいる。加えて、私の駄作はどんどん増えていく。足の踏み場もない。

 一方、父の故郷とはいえ、突然見知らぬ土地(群馬県勢多郡富士見村大字赤城山)に住み、多少は村おこし、群馬おこしのお役に立ちたいという気持ちもあった。当時赤城の南面には、ほとんど観光スポットというものがなかったのだ。
 (よし。小さくてもいい。身の丈にあった個性的な美術館を作ってみょう)

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 建物は、当初、住まい兼工房として作った70坪が空き家になっている。
それを改造する。コンセプトは3つある。
 @ 庭の中にホタルが飛んでいる群馬の自然
 A 東京にはない、田舎の人情
 B 思い切って五十の手習いを始めてみよう。つまり中、高年へのエール。

 迷ったのは、美術館の名前だった。本音は「セカンドライフ美術館」にしたかった。が、11年前の日本。まだその言葉は、いまほど漫透していなかった。やむなく自分の名前を付けることになってしまった。
 私の駄作を含めて、展示する物は山ほどある。
70坪では並べ切れないので、毎年すべての作品を展示替えする。たった一つ替えない物がある。生まれてはじめて作り、それが “窯グレ女” の原因になったアジサイの木の葉皿だ。

 しかし最近は、多少心境に変化が出てきた。
 「セカンドライフ美術館」もいいが、「ライフスタイル美術館」もいいなと思うようになったのだ。フランスヘモネの庭を見にいったり、アメリカのターシャ・テユーダー著「ターシャの庭」を愛読するようになったからだ。茶碗だけが作品ではない。庭もまた“作品”だと思うようになった。

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 20年前、陶芸を始めた時からひそかに夢見ていたことがあった。
 恥ずかしくて、長い間口外しなかった。が、もうそろそろいいだろう。
 2年前のある日、美術館のスタッフを前にして、おずおずいってみた。
 「私の夢はね、北大路魯山人の星岡茶寮なの。自分の作った器で、自分の作った料理を、だれかに食べさせたい。器って、やっぱり使ってもらいたい。器って、やっぱり、両の手の平で包んでもらいたい。この美術館で、喫茶を始めたいのです。まずはコーヒーから。つぎはラソチ。そしていつかお金がうんともうかったら,ほたる茶屋中という料亭を作りたい」
 
 スタッフはしぱらく、あっ気にとられていた。
やがて、気をとり直し、私を慰めるようにいった。
 「“ほたる茶屋”は、当分無理でしょう。けれど、コーヒーくらいなら、何とかなるんじゃありませんか。すでにコーヒーカップはたくさん出来ていますし…」
 「カレーも、大丈夫でしょう。中皿がありますから」
 「あの皿なら、チャーハンも盛れるでしょう」
口々に言ってくれた。

 喫茶 “萠” が始まった。夢のようだ。ことしの春は、庭の山菜を捕んで、山菜ごはんも炊いた。モネの庭の向こうを張って、コーヒーは庭のパラソルの下でも飲めるようにした。夢のような毎日が続いている。