読売新聞2006年10月13日
父を探して23年

 父の魂は、ふるさとの群馬に帰った。あの人は生涯、群馬と赤城山を愛してやまなかった。赤城山に行けば、きっと父と出会えるに違いない。

 そう思って、赤城山に土地を買い、住まいを持ったのは、1983年のことだった。私自身は大阪で生まれ、大阪で育った。生粋の「なにわ女」である。
 その私が、群馬で父を探し続けて23年たった。果たして、私は父と出会えたのか。

 そろそろ、答えを書いておいた方がいいと思う。父が生まれ、父が育った「子持村」は、今年、ついに無くなった。父がいたら、「さびしいね。萠子」と言うだろう。
 、「でも、お父さん。子持山はあるもの……」と私は言う。
 「そうだね。子持山はある。月見草もある。赤城山もある。シラカバもある。ホタルブクロもある。クマザサもある。利根川もある。群馬の空もある。においもある。桑もある……」「ダメ。桑は無いの。桑はほとんど無くなったの」
 「そうか。桑は無くなったのか。お父さんはね、子どものころ、桑を摘まされたんだよ」

 おカイコ農家の三男坊だった父の「カイコ談」はきりがない。私は言う。
 「桑はね、もう、あまり無いの。あなたの娘の私が、捨てる桑の木の根っこを頂いて、ドラム缶で燃し、その灰を紬薬にしています。茶わんにかけて、桑灰紬の茶わんと名付け、美術館で売っています。桑の木のお葬式のつもりです」
 「そうか。それは、さびしいな」
 「でも、群馬の製糸を記念して、日本絹の里という記念館も出来たし、旧官営富岡製糸場を世界遺産にしようという運動も盛り上がっています。私も、その運動をやっています」
 「へえ。萠子はそんなこともやっているのか。うれしいな。でも、何か新しいことはないの? 『新しい群馬』おこしは何なの?」

  ― お分かりでしょうか。こんな風に、父と私は毎日会っているのです。毎日話をしているのです。
 父は、やっぱり群馬に居ました。赤城山に居たのです。

 これが、23年かけた私の報告です。いま、私は「新しい群馬」をつくる夢に張り切っている。2年前、フランスのジベルニーで見た「モネの庭」が忘れられない。あれに負けない庭を、赤城山の私の美術館につくろうという、でっかい夢を育てている。