くぅちゃんが 死にました。

  2006年、7月25日のことです。
  車に当たって、内臓破裂で、死にました。
  私は東京から駆けつけましたが、私が着く40分前に、くぅちゃんは、
 たった一人で死にました。


  ごめんね。 くぅちゃん。
  あなたは、いつもいつも、私を待ってくれる存在でした。赤城に行けば、
 くぅちゃんが待っていてくれる。そう思 うことが、私をどんなに幸せにしてくれたことか。
 死の瞬間まで私を待ってくれた くぅちゃん。


  私の作った『くぅちゃんの家』(骨壷)でゆっくり眠ってね。 
  ごめんね。くぅちゃん。
     ありがとう。くぅちゃん。


           2006年7月27日                    俵 萠子
 読売新聞9月8日
赤城犬「くうちゃん」の生涯

 「焼きものをやっていて、よかったなぁ」。しみじみ、そう思った。
 先号、この欄でちょっと触れた、私の犬の死の時だ。
 犬の名前は「俵くに子」という。1992年、赤城山の我が家に捨てられていた犬を拾った。拾った年を忘れないように「くに子」と名付けた。白黒で毛の長いくに子(通称くぅちゃん)は、拾ったころパンダに似ていた。
そのころ、予防注射をしてくださつた医師が「満1歳ぐらいでしょう」といった。
 そのくぅが、今夏の7月25日、敷地の中で車に轢かれ、内臓破裂で死んでしまった。推定ではあるが、15歳だったろうと思う、あんなに賢かったくぅが、車のエンジンをかける音になぜ気付かなかったのだろう。
不思議に思う。
 「最近、耳が遠くなっていて、エンジンの音に気が付かなかったのだろうか。気が付くのが遅く、敏捷に逃げられなかったのだろうか」
 おそらく、両方だったろう。「老いる」ということは、そういうことなのだ。
仕方がない。仕方がない。
私は、自分に言い聞かせる。
 くぅが亡くなった日、私は東束から、新幹線で病院に駆けつけた。間に合わなかった。私が着く40分前に、くぅは赤城の空へ旅立っていた。くぅを抱いたら、まだ少し、温かかった。そして、柔らかかった。車の後部座席に乗せ、しっかりと目を閉じてやった。
 だんだんに彼女は硬くなっていった。途中で、動物霊園に立ち寄った。彼女を入れる箱を探した。が、私の好みのものはない。仕方なく、いったんは富士見村の家へ彼女を運れて帰った。
改めて、今度は前橋で探した。私は、かわいい、赤ちゃんの揺りかごのようなものが欲しかったのだ。でも、そういうものは、なかった。
 結局、半透明の押し入れ整理箱を買った。くうをタオルにくるんで箱の中に入れ、庭のアジサイを山のようにとってきて、くぅを花で飾った。これでアジサイは、私にとって生涯忘れられない花になるだろう。
 2晩一緒に寝て、3日目に火葬した。骨になったくぅは、骨まで可憐だった。
10年前、,私が作っておいた「くぅの骨壷」に入れると、半分ほどにしかならなかった。その骨壷を、美術館のコーナーに置き、周囲は花で飾ってある。
 骨壷が役に立って、うれしいのか、悲しいのか。でも、私の作ったおうちに、くぅがいてくれることは、うれしいのだと思うようにしている。
 Coo&Sakuraのページでご紹介をしておりますが、それ以外の画像を
「在りし日のクニ子」
 として特集しました。
あかぎの居宅での団欒のひととき
  お留守番 来客があると車までお出迎え?
 特に一度でもお声掛けくださったお客様は良く
 覚えていたようです
今年の3月行われた『観梅茶会』の折の
接待振りです。
上から左、右と時系列になってます。
お宜しければ通夜、葬儀にご参列頂ければ幸いです