開催の挨拶  読売新聞社前橋支局長  佐伯 和宏氏
 俵さんとは10数年来ののお付き合いになりますが、
母親が同い年であることもあり、大変親近感を持って
おります。自分は昭和32年の生まれで、戦争は全く
知らない世代ですが、政治学者の丸山眞男の著書や
ナチズム、ファシズムの本などをよく読んでおりました。
 記者となってからは、戦争にかかわる取材にも多く
携わりました。
 俵さんから今回の企画の相談を受けたとき、即座に
協力を申し出でました。
今こそ我々皆で考える時であり、60年の節目の今年
ましてや体験者が高齢化した今、大変有意義な集い
と思います。


体験発表
俵のインタビュー形式も含めた司会でご発表いただきました。
<前橋空襲>
片野久子様 原田恒弘様(67)
 終戦を10日後に控えた昭和20年8月5日。死者535人の前橋空襲がありました。
当事の前橋は何の変哲もないどこにでもある1地方都市でした。従って日本国中同様の被災地は多数ありました。
しかし被災者の生の体験談は、戦争の非常さや不条理さ、戦争そのものへの怒りが皆さんに起こってきました。
原爆による無差別な非戦闘員の殺戮が問題になりますが、殺戮を目的としているのが戦争なのだを再認識しました。

 空襲は市の周辺部の爆撃から始まり、瞬く間に市外に脱出することは出来なくなりました。それから中心部への焼夷弾
の雨です。地域の共同防空壕に逃げ込んだ原田氏は、当時小学2年でした。火災の熱風は壕の中にまで及びその恐怖と
苦しさから思わず傍にいたおばさんに助けを求めたところまで覚えており、気が付いたときは母親のもとでした。
探しまくった母は壕の中で、女の人に覆いかぶさられている原田氏を発見したとのことでその女性は亡くなっていたとのこと
です。 原田氏は今日尚このおばさんが何処の何方であったのか気がかりとのことでした。

  師範学校出に課せられた短期徴用の制度により、
 海軍に水兵として徴収された岩丸文男氏は為す事も
 ないまま8月15日を迎え、即、帰郷の途に付いた。
 交通手段は徒歩が頼りであったが、途中自転車の
 荷台に乗せてもらったうれしさと恩義は今も忘れない。

  現在は俵萠子陶芸塾で土いじりをしているが、
 折に触れしみじみと平和のありがたさを感じております。
 
 
 
  当事女学生だった馬場三春さんは、東京に住んで
 いました。

  道を歩いている時、身近にグラマンの爆音がし、
 とっさに傍らの防火用水桶の陰に身を潜めた。当事防火
 用水桶は空襲になったらこれで消すようにと隣組の
 訓練もあり、いたるところに設置してありました。
 
  私に向かってくる飛行士の米兵と目が合い、はっきり
 と見えたその顔はニヤッと笑ってました。
 この顔は今でもはっきりと焼きついてます。
 バリバリバリバリ・・・という音と共に飛び去っていきま
 した。 ようやく我に返り気が付くと私の1.5Mほどの
 ところに道に沿って銃弾の列が出来ていました。

 この馬場さんの話を、俵は「馬場さんとは随分長いお
 付き合いだが始めて聞きました。」
 
  
   今 充氏

  俵さんとは、この6月のフランス旅行にもご一緒するなど大変親しくして
 いるが、戦争は絶対にしてはいけないとの強い思いがあり、是非にと
 今日は弘前からはるばるやって来ました。
 
 今先生は元弘前大学付属病院の院長をなさっておられ、退官後の今尚
 健康作りのボランティア活動にも熱心に取り組んでおられます。

 今回のお話は当事少年だった戦争体験というより、医師の立場から戦争
 を総括し、戦後に激戦だった南方にも足を運び、戦争で命を失うのは、
 火薬や武器だけではない。、マラリヤや他伝染病で、或いは栄養失調で
 亡くなっていった方々が如何に多かったかを語り戦争の悲惨さを熱心に
 訴えました。

  最後に詩を吟じられこれに涙された方も少なくなかった。

      お父さん
    声を限りに叫ぶ我
    波のかなたに
    父の声聞く
 
 
 この日会場に来られていて、発表を希望された
ナカザワツネオ様はあの8月15日は草津で迎えたが僅か
10日後の25日にはMPが草津の町にやってきた。
誰もがのどかな温泉地とイメージする草津にいた私も
被害者の一人ですとおしゃていました。
 
 会場からの挙手参加の東京の川瀬様。
昭和5年7月生まれ。予科練に中学生入隊をして
いたとき終戦を迎えた。
中学校に復学後、その教師たちの教えのあまりにもの
変貌振りに驚き、戸惑い、虚無感に苛まれた。
大切なのは今後なのだと考え、大学では歴史を専攻
しました。

14才・萠子の夏 平和の祈り