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あの頃のことは、話すことがなかった。否、話したくなかったのかもしれない。
美術館へお出でのお客様と、或いは講演先でのおしゃべりの中で、たまたまあの頃のことに話が及ぶと、避けようとされる様子に出会うことが良くありました。60年たった今も尚、トラウマとなっておられるのか。
だからこそ、そんな方に、そんなあの頃のことをぜひお話頂き、そして語り伝えねばいけないとの思いを強く持つようになりました。
この企画の語り部として5人程の方にお願いしましたが、内お一人は5月に亡くなられ、お一人は現在入院中でご参加いただけませんでした。 |
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驟雨に見舞われ、激しい雨音の中160人ほどの参加者の皆さんは耳をそば立て聞き入っておられました。
あのころのことを 語る側にとっても、聞く側にとっても、まさに天の演出かとの感がありました。 |
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14歳の少女。授業はなく勤労奉仕で肥担ぎをしていた。こちゃこちゃと跳ねて口に飛び込むことがあった。僅かに塩味を感じた。
栄養失調の状態が極限だった体には虱が取り付いていた。
おかゆが配給になったことがあった。隣組長の家で渡されたものは、僅かばかりの重湯様のもので、それをさらに水で加量した。両親はまったく口にせず『おいしいか、沢山お食べ』の声は今も耳に残っている。
空襲で何もかも焼けつくした我が家の跡地で父母に再会する事が出来たときはしがみついて泣いた。大好きだった猫が路地だったところで黒焦げになっていたので、そこに葬ってやったと母が言う。その小さな土饅頭に取り付くと、傍らに焼けて文字が白くなったコンサイスが風が吹くたびにぱらぱらとページが開かれ散っていった。
学徒動員で潜水艦の蓄電器を作っていた。作りながら <兵隊さんこれで頑張ってください> と念じていた。
これは今思えば小国民と称せられていた自分たちも加害者になっていたのかと思う。 |
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